はじめに

クリスマスも忘年会も正月もひきこもりにとっちゃ何も変わらない一日です。

 

 

班替え

学年の一大イベントといえばクラス替えである。ならばクラスの一大行事は席替えだ。以前も言ったようにクラスの人数は大体36,37人。6つの班に分けられる。
班は自由に決まるわけではなく、席が前後で隣り合わせ3:3の男女で構成される。席は男の子と女の子が常に隣り合う。縦に男の列と女の列が交互にある。クラス替え直後は、男女それぞれの列を出席番号でうめていくだけだ。先生が顔と名前と出席番号を一致させるためだろう。


いままで変わる席替え。ランダムでバラバラになるのは楽しみだった。ガチャだ。くじひきはひけるなら何度でも引きたい。当たり外れがあったり、仲がいい人、好きな人、かわいい人と隣同士になりたい。みんな欲望がせめぎ合う。せめてどうか同じ班であってほしい。くじ番号に願いを託す。先生もエンターテイナーだったね。


くじ番号は先生が紙をちぎって書いていた。ご苦労さまです。ただ、小学生もずる賢いもんだから、平気で買収や席交換をしていた。ばれたらやばい。特賞に先生の教卓目の前特等席をご進呈。拒否権はない。あたりの席は、窓際で日が当たる左下の席だ。最高の場所だ。ぽかぽか陽気で最高に昼寝が捗る。窓際だったらどこでも嬉しかったね。


最もクラスの雑巾掛けの場所によっては、雑巾臭くもある。雑巾掛けを外に出してしまえばいい。僕としては、誰かと一緒の班になりたい、そんな気持ちより窓際のほうが大事だった。班で分かれていると言っても、小学生はクラスを超えてなぜか仲がいいしね。
中学生、高校生だと部活で知り合いでもしない限り、自らの部屋や垣根をあまり超えない。小学生の生態は教わらずともグローバルよ。


ドッチボール

体が大きくなる高学年になると、ボールを使った遊びに徐々にシフトしていく。かの小学校は、生徒の人数に大して学校の校庭がせまい。逆に生徒が多すぎた。1年生から6年生までが一度出てくる昼休みは、夏の市民プールだ。ぎゅうぎゅうに渋滞する。言い過ぎか。それでも、場所を取る遊びは高学年が先に専有していしまうことが多い。体が大きいからね。ドッチボールや、サッカーは広さがいる。野球はバットを持ち込み禁止されていた。新聞紙素材の野球なら教室でできるしね。小さい部屋用ほうきもテニスのラケットみたいで丁度いいバットだ。


高学年は、スペースを専有してしまう。低学年はしぶしぶ狭いところか、裏手にいびつな形のコートを作るしかなかった。高学年と低学年の仲が悪いわけじゃないよ?ただ、常にまざって遊びはしない。気兼ねのない同学年のほうに軍配が上がる。だから、突如として3年生vs5年生のドッジボールがはじまることも会った。


ケンカも起きるっちゃ起きる。小学生はサルだからな。どっちが先にいたやら、いないやら。水掛け論をするのが小学生は大好きだ。いつ言いましたかー???何時何秒地球が何回回ったときぃーーー??この煽りは基礎中の基礎。精神攻撃検定初級認定書。
結局は、仲良くなったり。低学年を力で押しのけたり。言いたいことは、ドッジボールをのびのびできるのは4年生くらいからだったてこと。男の小学生は、いつだってマウントをとりたがる。流石に1年生、2年生にはみんな優しいけどね。まーぜて、なんて言われたらそりゃまぜる。断る理由がない。遊ぼうじゃないか。

 

ドッジボールはチーム分けがいる。クラスのやつら、別のクラスの奴ら、低学年。ごっちゃまぜ。何にせよルールとチーム分けをしなければゲームができない。とーりっぴ、そう掛け声をかけ、じゃんけんをする。
勝ったほうから1人指名する。負けたほうが次に指名する。毎回じゃんけんをするこの方式は公平であった。次ははやく選ばれたいと、モチベーションにもなる。強い子も大体均等に分かれる。もっとも小学生程度だとそこまで差はでない。ボールをうまく投げるコツを知っているか。片手でボールを投げられるか。逃げる力。ここらへんは選ぶための大きな理由になる。


体が比較的に小さいときは、避けることに楽しみを見出していた。5,6年制にもなると、ボールをうまく投げて相手を倒すことも楽しみになる。ドッジボールのボールは柔らかく、頭にあたっても大したことはない。しかし巨人のでかいM君は、小学生とは思えない速度で殺人ボールを投げてくる。ぼくはデブのC君をよく盾にした。


デブのC君は動けるデブ。でかいってのは縦でも横でもドッジボールでは正義だ。あつい脂肪が、速度をやわらげる。ルールでは、あたっても、跳ね返ったボールを味方が地面に付く前にキャッチしたらセーフだった。その点でも、脂肪のC君はあ他ってもボールが上に上がりやすい。カバーしやすし。生存力たかし。評価も高かった。


それるが高校でやったドッジボールはやばかったな。僕はハンドボールに所属していた。ハンドボールの弾は硬い。高校生はもう大人と大差ない筋肉量がある。あとは分かるな?あの殺し合いもそれはそれで楽しいがね。相手をノックアウトするために、松脂も使っていた。鼻血ぶーぶーよ。胸キャッチは論外だった。両手のひらで速度を納めるのじゃ。

 

ドッジボールで骨折。

初めて骨折を経験したのは、交通事故に会ったとき、ではなかった。ドッジボールでクリーンヒットしたときだ。

 

交通事故のはなししたっけ?友達の家からの帰り道。2つの国道が交わる大きな交差点がある。車の交通量も多い。
堪え性のないぼくは、目の前の赤信号が青に変わる前に自転車を漕ぎ始めていた。もちろん、目の前の信号が青になる少し前って意味だよ。垂直に交わる別の道路も、すでに赤に変わっている。ぶぅうううんどーん。ごろごろごろと吹っ飛んだ。


10mくらいぼくは転がったらしい。トラックでなくて幸いだった。相手は普通自動車。あっちの車は完全な信号無視。この少年も、青にかわる直前だったけど信号ではまだ赤の信号無視。とくに咎められはしなかった。何を言われたか忘れただけとも言う。そのときのっていた自転車は見事にぶっ壊れた。身代わりになってくれたのだ。


自転車の犠牲と引き換えに、僕は骨折も大きな怪我もなし。というか血もでなかった。かすり傷が滲んだくらい。打撲もない。ぴんぴんしていた。子供の体はとにかく柔らかく弾性にとんでるね。ぼよんぼよんはね飛んだって聞いた。すくっと、立ち上がって歩いて家まで帰ったからね。現場に呼び戻されたけど。次の日も普通に学校に行った気がするし。いや病院だったけ?病院かも知れない。学校では10tトラックにはねられて無傷だった少年になっていた。もちろん、のっかった。

 

おっと、話がそれてしまっている。初めての骨折は右手の小指だった。ドッジボールで、相手のボールをキャッチしようとしたら薬指と小指にダメージを与えてしまったらしい。気づかずにドッジボールを続けた。


昼休み終わってなんか痛いな―?と思った。保健室の先生が、折れてるわね。そう冷静に言った。淡々と言うからはてなマークが浮かんでいた。あれよあれよと病院に連れて行かれる。医者の先生が、あー折れてますねという。そうか。折れたのか。
レントゲンをとるとキレイにぽっきと折れたらしい。医者は次にこういった。真っ直ぐにするために小指の骨を引っ張り合わせますね、と。思い出すだけで、胸がバクバクする。こういう痛い描写苦手なんよ。じゃあなぜしたんだって、トピックがあったから…。俺は顔面蒼白ひぇええと言いつつ、医者はとまらない。痛かったような痛くなかったような。


骨折から治ると、骨はより太くなるらしい。だからか、右手の小指の第二関節は一回り太くなっている。なんだがか小指が曲がっているようにも見える。ほんとに治ってんのかー?この想像は怖いから止しておこう。


I君重傷骨折

4年生にやたら精悍でイケメンでなよなよしたかっこいいやつが転校してきた。サッカー少年で外人みたいなイケメンとか嫉妬の炎がやばいね。そういえばI君は先日結婚したらしい。お幸せに。ガッデム。
転校してしばらくたつと彼はヤバい骨折をした。骨が肉を突き破って、(省略)。なんでこんな痛々しいことを描写せなあかんのか。痛々しい光景を目の当たりにすると、胸が苦しむんだよ。解散。


自転車。心のブレーキはない。

小学生は怖いもの知らずだ。鬼ごっこでは平気で危ないところを走り回る。しげみを分け入り、身の丈もあるほどの雑草を掻き分ける。木に登り、ジャングルジムからは飛び降りる。躁状態の自殺志願者である。


自転車のブレーキを使うことはまずなかった。急な坂を平気な顔して、駆け下りる。とんでもないスピードが出る。脇から車がきたら、確実に死ぬ。跳ね飛ばされてブロック塀にきれいなザクロが咲くでしょう。というか俺が死ななかっただけで、こんな原因で死ぬやつ絶対いる。運が良かった。


長い長い急な坂をブレーキを使わずに駆け抜ける。速度を保ったまま、曲がりくねった道を右に左に曲がる。そんな命知らずなレースをやっていた。時には走り、キックボードで、自転車で、ローラースケートで。車輪は転がるから仕方ない。

 

ドMのTさんと注射

最近は注射も慣れた。血液抜かれることに少しの不安はある。

 

小学生時代は、てんでダメだったね。Tさんという危篤な少女がいた。精神がね。彼女は小学生なのに真正のドMであった。いいところのお嬢様なのはずなのに。多分5,6年生のクラスで一緒だったのかな?


Tさんは中学受験をしたから、同じ中学校じゃなかったような?あれ同じ中学校だっけ。いや、違うはず。小学校は子どもたちが一堂に解する場所だから、予防接種をまとめてうけさせるのにも最適だ。


一年に1回か2回か、体育館に順番に並び注射を刺される。ぼく?その日だけは、血の気がひいた顔で一言も喋らなかった。まな板のうえの鯛どころか出荷寸前の牛だった。逃げても無駄だ。やつらは出席簿で管理してくる。脱走は意味がないのだ…。


クラスでも痛いのはやだーと、わいわいがやがわ話になる。そしてTさんは言うのだ。「えっ、注射って気持ちよくない???」と。変態である。性癖の発露が早すぎる。彼女はいまもドMだろうか。

 

Tさんは女の子の友達からいじられるのもひどく喜んでいた。
口では「やーめーてーよー♡」と。あぁ、すでにハートマークの語尾ついてますね。口もとがゆるむような笑顔。あんな満面の笑みでいじられる子おる?おらん。


Tさんと言えば、何が原因かTさんと言い争いになった。言い争うといっても、子供特有の水掛け論だ。根拠も乏しい。私がただしい、お前は間違っている、いーやぼくがただしいとか。しょうもないことだったと思う。


ぼくは、議論で相手を打ち負かすことがとりわけ強いわけでもなかったろう。ただ、Tさんはとんでもない雑魚だった。雑魚というか、自爆…?Tさんの言葉を屁理屈で下していくと、なんだかTさんがどんどん興奮してヒートアップをする。
沸点に到達した。そして突如、彼女は鼻血を吹き出した。吐血かと思った。混乱と静寂がクラスに舞い降りた。Tさんは笑っている。なにがおかしいのか、口がだらしなくにんまりと緩んでいる。えぇ…。いじめられて興奮したの…?


Tさんは「えへ、えへへ、ち、違うの。」と言っていたが、何が違うのだろう。「ね、ねぇ、聞いて、違うの。興奮したわけじゃなくて、えへ、なんか鼻血が出ちゃったの♡」心なしか喜んでいるようにも見える。語尾に♡も見える。彼女の味方はいなかった。Tさんと仲の良いうHさんも苦笑いからの爆笑をしていた。
Tさんは真正のドMであった。あまり美化されてない記憶なのが悔やまれる。変態だよぉ。

 

 

 

Tさん元気かなぁ。ただそんなに仲がいいわけでもなかった。マンション組と仲が良かったから、そのつながりで話すことが多かった気もするけどね。

 

回想録 小学生編8

今日の一言

天気は晴れてて追い風。病院までの道はすいすいすーい。
天気晴れたても風が強い。びゅうびゅう向かい風で立ち漕ぎしても進まない帰り道。

 


マンション住みの奴らと出会う

私は一軒家が立ち並んでいる地域に住んでいる。
旧街道を歩いていくと、大きなマンションがある。3,4年生になってから、彼らと学校でよく遊ぶようになった。理由は何だっけ?同じクラスだったからだっけな…。同じクラスの子を1人しか覚えていない。たまたま帰り道の方向が似通っていたからかな?家までの帰り道は2つの道がある。彼らと一緒に帰るのは少し遠回りだが、帰り道もまた遊びだ。


中高でも仲良くつるむおでこの広いS君。やんちゃでいたずら好き握力が6年生でも一桁ガリガリM君。身長が学年で一番たかく巨人なM君。でぶじゃないよぽっちゃりだよ、いやお前は動けるデブだよC君。この4人とよく遊んだ。


彼らの存在はドッチボール大会で知ってはいた。実際に対決したこともあった。低学年ときは、遠くから仲良さそうだなぁ伺っていたことがある。夏休みに住んでいる地区別のドッチボール大会が小学校ではあった。彼らマンション組は、マンション内にテニスコートがあり、そこでドッチボールの練習していた。ゆえにめっぽう強くて敵なし。いつもそこが優勝していた。


女子も蛮人みたいな凶暴な子が多かった。かわいい子も多いね。団結力もあり、彼らマンション組はお互いに仲が良かった。このマンション組との仲は今は疎遠であるが、小学校だけでなく、中学校、高校まで仲良くさせてもらったのは前述のとおりだ。
とりわけ小学校、中学校では仲良く遊んだ。通学路の道が似通っていたから一緒に帰れる。必然的に距離が近くなり仲良くなった。


牛乳戦争

家の食事は、まずい、ときもあったがいや普通か。美味しいものは美味しいんだけど、記憶に残るほど美味しいものはない。なんでもかんでも混ぜれば美味しくなるという思考がにじみ出ていた。単品ではそんな悪くないのに、やたら余計なものを混ぜたがる。おかげで変な味になる。それは嫌だった。栄養さえ取れれば、お腹に入れば一緒でしょと。味をもっと気にしてほしい。


ゆえに学校の給食は私にとってオアシスであった。中には舌の肥えてる子。強がり?なのか学校の給食はまずくて食えないという子もいた。ほざく連中もいたけど、誰がなんと言おうと給食にはいつも五体投地するレベルで感謝していた。安定してうまい。量もある。アモーレ。


給食には必ず瓶牛乳が各自に1本支給される。煮干しも毎膳支給されるが、湿気ていると食べる気に慣れなかったな。湿気てる頻度も多かった。冷暗室のせいかな。マンションのM君は余った煮干しをもりもり食っていた。昼休みも手に煮干しをすくうようにもっていた。煮干し、うまいかなぁ。たまにでる乾燥大豆は好きだった。食感がかたいものは好みだ。


僕の牛乳は大好物の1つだ。クラスには牛乳が飲めない子がいる。彼らはのまないで、カゴに牛乳を戻す。先生もとくに嫌いなものを強制するタイプではなかった。グッジョブだ。戻された牛乳は奪い合いだよね。基本的に早いものがちであった。

 

小学校では班という概念がある。36人だったら、6人ずつに班分けされる。教室を6に分割して、隣り合っている子同士が班になった。給食の時間は6人の机をくっつけて、かたまって食べるのだ。お互いの顔を見えるし、会話も弾む。あの仕組みは結構いいよね。班は週毎にそれぞれ役割があった。給食を配膳する当番も班で週周りだった。


食が細い子が、同じ班にいるとラッキーだった。彼らに事前契約して、毎日牛乳やら、いらないモノやらを分けてくれる。彼らは嫌いなものを食べなくてラッキー、僕は多く食べれてラッキー。Win-WInだ。たとえおかわりができなくても、常に腹ペコだったから本当に助かった。


給食の時間が来た。クラスの生徒は一人ひとり並び配膳をしてもらう。みんなに行き渡ったら、先生だっけ?いただきますの合図をする。戦闘開始の合図だ。
一食目はかきこむ。ひたすらに味わうまでもなくかきこむ。給食が配膳し終わっても、ご飯やら味噌汁やら、オカズが大抵残っている。食べ終わったらおかわりをしても良かったのだ。


デザートなどの人気のものには目もくれない。デザートじゃ腹は膨れない。甘いより、しょっぱいものだ。デザートの代わりに主菜をトレードすることもあった。余ったデザートは女子も欲しがる。じゃんけんだ。じゃんけんは確実じゃない。俺はやつらがじゃんけんをしている間に、ほかの獲物を狩る賢さを持っていた。


1番人気のものをじゃんけんで囲んでいる間に、主菜の肉や魚を先に確保。ついでにほぼ確実に残っている野菜やサラダもゲット。ご飯や味噌汁は教室全体に行き渡るように、多少余分に入れてるのだろう。毎回必ず余っていた。つまり急ぐ必要はない。
牛乳はおかわりにいくついでにポケットに忍び込ませる。完璧なプランだ。このプランを十全に実行するために、自然と学校の給食を食べる速度が訓練されていった。体はちいさかったが、クラスで毎回一番に食べ終わっていた。もっとも給食を食べたのも僕だ。


そのちいさい体のどこにそんなに詰め込めるの?とよく聞かれた。まぁまぁ異常な量を食べていた。ごはん味噌汁大盛り4杯主菜をありったけ。残った野菜も全部。牛乳も残ってる限り全部。競争相手がいないと嬉しいね。あの時代に大食いに挑戦しとけば良い記録を残せたんじゃないか?kg単位で食べていたかもしれない。


5,6年生のクラスではライバルが増えて困った。小学生で170cmを超えていたM君、デブのC君、煮干しのM君。分前が減るんだよ!!!俺は強欲で暴食だった。だからインフルエンザが流行る時期、生徒の半分も来ない日とかはむしろラッキー!と思ってた。
給食はたらふく食べれる。午後の授業はなくなる。天国だったね。

 

そういえば学校のナポリタンスパゲッティの量はとにかく異常な量詰め込まれてたなぁ。おかわりしてもおかわりしても食べ切れないくらい配膳されていた。
6年生のときはそれでも足りなかったけどね。ひもじさが極限を超えると他のクラスにまでおかわりを貰いに行っていた。日常的におかわりを求めていたから、わりと他のクラスも諦めていた。あの頃は早食いは正義だった。今は逆に亀のようにゆっくり食べている。

 


かぼちゃのみかん煮

そんな暴食で欲張りな人間だったが。一度だけこのまずさは耐えきれない、と敗北した。かぼちゃのみかん煮。やつは小学校で一度しか配給されたことはなかったが、やばい味だった。


かぼちゃとみかんの苦味を極限まで濃縮。かぼちゃのしつこい甘ったるさを強調。みかんの尖った酸味も余さず後味として口を汚染する。どんな調理をするとこんなエグミしか感じないモノを生産できるのか慄いた。給食のおばちゃんへの信頼感が揺らいだ初めての日だった。ぶたの餌か?


クラスの誰もが残していた。食べる前との教室の空気がまるで違った。沈黙だ。本当にまずいものを食べたとき、まずいと言う前に閉口する。口の中のメタン廃棄物を処理する必要があるからだ。一口食べればまずさがわかる。先生すら黙っていた。でぶのC君をのぞいて。あのデブ馬鹿舌…?

 

だが助けられたとも言う。5,6年生のときのクラスだった。大食らいが多く給食へのプライドがあった。配膳箱は絶対に空にすると、鉄の意志を持っていた戦士たちだ。いつもこの教室だけ廃棄が0だと褒められていた。残すわけには行かない。だがっ…!まずいっ…。苦すぎて、甘すぎて、酸っぱすぎる。これは食い物ではない。自分の皿を処理するだけで精一杯だった。俺には無理だ。俺は甘いものが苦手だったから、なおさら食べる気になれなかった。

 

配膳カゴに山と残っているかぼちゃのみかん煮を、C君だけは嬉々として食べた。このデブやべぇ、と本気で引いた。デブは甘み以外のセンサーが多分ぶっ壊れているに違いない。そんなゲテモノデブでも流石に全部は食べ切れなかった。みんなが残し、カゴの半分も残っていたからだ。その日、我がクラスは敗北した。すまねぇ、給食のおばちゃん。でもあれは食い物じゃないと思うんだ。悔い改めてくれ。


人生の中で嫌いな食べ物は?と聞かれたら、かつての母のなんでもオールインわん料理。母の失敗こげ料理。かつて姉の作った砕いた殻まるごと卵焼き。洗剤味パクチー。こいつらに並んで、かぼちゃのみかん煮もランクインする。好き嫌いが無いと思ってたが、意外とあるなぁ。


ともかく、物理的に食べられないわけじゃない。しかし極限まで苦味を追求。後味に極限の酸味と極限の甘みを追加。するとこんなにも素材を冒涜した味になるのかと戦慄できる。分量が何か間違ってたんだろう?なぁそうだと言ってくれ…。苦味をごまかすために、砂糖かグラニュー糖を入れすぎちまったんだろ?異常な酸味と苦味はみかんの皮だろうな…。
かぼちゃとみかんの相性はそんな悪くないと思うんよ。うん。試さないけど。


いちご牛乳

いちご牛乳。いちごを潰して、牛乳に突っ込めばいい。今は別々に食べるほうが好きだ。しかし小学生の時はやたら合体融合をしたがる。一日一合体。牛乳といちごがでたら合体させる。合体させないが失礼とすら思っていた。


給食のいちごは結構珍しい。珍しいけど、全く出ないわけではない。1ヶ月に1回くらいは出てたんじゃないかな。そんな貴重ないちごを、牛乳にぎゅうぎゅうとおしこみ、箸でぐさぐさ。潰してばらばらにする。
うまいことを混ざりあえば、なかなか美味しい。自動販売機に売ってるいちご牛乳。あれとはもちろんまったく違う味わいになる。
適当に押し込んでいるだけだから、まず均一でない。牛乳の瓶をシェイカーのようにふろうものなら、シャンパンもかくやと教室に降り注ぐ。振れない。
そうなると、飲んだ時にほのかにいちごを感じる牛乳部分。果肉がぷちぷちと楽しい果肉メインの部分。逆に、この2つを交互に楽しめるいちご牛乳になる。口触りが変わるのが美味しさの秘訣だったかも。


牛乳掃除

小学生給食あるあるその1。牛乳の一気飲み。どっちのがはやく牛乳を飲めるか勝負をする。寒くなってくると、冷えたままの牛乳をのまない子が多い。競争の回数も増えるってわけだ。


温泉上がりのように、腰に片手を当てて、残りの手で牛乳を傾ける。正直これが原因だよね。急激に傾けるもんだから、小さい口では牛乳を受け止めきれない。口からはこぼれ、鼻に入り、顔は白濁液であふれる。エロい。いや鼻水とよだれ混じりで汚い。
焦って気道にも入り、ごふっと咳き込む。あー大惨事。立っているときはいいけど、座って班の形に机を向けているとなおひどい。隣の女の子とは向かい合わせ。いくべんぼくのよだれ牛乳を吹きかけたろうか。ほんとすまん。


ゆえにぼくが持っていた雑巾はクラスでもトップクラスの牛乳臭さだった。牛乳を飲んでるだけで、いたづらしてくるやつが悪い。いたづらするのは許してほしい。そういえば勉強のできたO君は牛乳霧スプレーだった。なにをしても笑い出すもんだから、こっちとしてもO君が牛乳を飲もうとすれば、なにかせざる得なかった。仕方ないよ。いじめ、だったのだろうか?勉強を教える優しい子だったよ。

 

そんな牛乳くさい雑巾で教室の床掃除をする。逆に汚しているのでは。

 


くじらのたつたあげ

最近はもう珍しいようだ。くじらが給食出ていた。くじらの竜田揚げだ。他の食べ方は知らない。4年生くらいまでかな。途中からはくじらといいつつ、カジキだったらしい。食感も確かに違った。おかわりしたあとはきちんと味わっていたんだ。


ソースだったっけ。なにもついてなかったけ。マヨネーズと納豆とケチャップを学校で食した記憶はないから、ソースだと思う。結構くじら肉はかためな筋肉質。色は黒とまではいかないが、濃い色をしていた。


カレーはこぼすもの。こしょうはたっぷり

カレー。カレー美味しいよね。揚げ物とも、野菜とも魚にも肉にもあう。CoCo壱番屋の10辛カレーに挑戦してみて、ケツ穴が違和感を覚えたのは5年前の話か。辛すぎるのはだめだ。旨味の中に辛さを感じるのが、辛いものの楽しみ方だと思う。味噌汁に少しの七味を加えるのが好きだ。


小学校のカレーは甘口だったが、代わりにやたら胡椒が入っていた。唐辛子のような辛さはないが、水分を持っていかれるような強い胡椒感。のどがひりつく。辛くないけど、辛いと感じる甘口カレー。男的には歓迎だったが、もう少し甘口がいいとの声もあった。


低学年向けは、もうちょっと甘口だった気がするんだけどね?高学年だとすこし味付けが違うんだろうか。手間をかけてるのかな。


配膳をする際に、ワゴンを配給室から自分のクラスに運ぶ必要がある。かなり重い。1人だとワゴンの重さに振り回されてしまうほど。それでもせっかちなアホいる。お腹が空いてしかたがない。班のみんなを待たずワゴンを1人で取りに行ってしまう。俺だけじゃないよ?


多くの場合は、ワゴンの安定さによって壁にぶつかっても問題ない。柵もある。たまに、教室に入れる時に引き戸ドア用のレールに突っかかりひやっとする。一度だけ、どしゃーとあらゆる給食カゴがぶちまけられた光景をみたことがある。俺がやったんだっけ?いや別のクラスのメガネ君だった気がする。


無事に教室に運び入れた。いざ、配膳用の机に鍋を運ぶ。36人分+αだ。くっそ重い。ここでも気を抜くと倒してしまう。倒したら掃除が大変。食い物も減る。給食のおばちゃんになんとかすみませんといって、予備があるか聞く必要もある。ないときは別のクラスに物乞いして、鍋の中身を分けてもらう。
給食を人一倍大事にしてたからこそ、給食をへらす行動だけは本当に気をつけていた。食い意地は全てに優先される。ワゴンの制御、重い鍋運び。子供のときでも筋力は正義だ。

 

こぼしたときとの後片付けやら小学生の先生は大変だろうね。そもそも小学生なんてサルだ。小学生の先生だけは俺はなりたくないな、とずっと思ってる。教員資格なんてないけどな。大学すら卒業してない。資格を持っていても、精神適性診断で落とされそうだ。
なにより給食のおかわりが先生はできないだろう?やだね、やだやだ。食べすぎて首になりそうだ。


ラーメンはずるずる

学校のラーメンは、伸び放題だった。汁のなかにすでに麺がぶちこまれている。まぁ、事情は分からんでもない。そっちのが配膳しやすいしね。麺が伸びることを前提に作るなら、工夫もできる。それゆえか麺は太めだった。


汁と麺が分かれている時もあった。汁の配膳に失敗すると、麺だけが残ってしまう。汁担当と、麺担当は別の子だから、性格によってやっぱ残り具合が変わる。汁担当が倹約家だとナイス采配だ。


汁担当が豪快で適当なやつ、麺担当が消極的な子だと麺だけあまって途方に暮れる。いざおかわりの儀。汁が一滴も存在しない。麺だけはたくさん残っている。麺に味はない。麺味。最悪。一度、血迷ったM君が牛乳に麺を突っ込んでて頭おかしいなと思った。小学生みんな行動力あるよな。


だからこそ、汁は飲みきらず残しておく。汁と麺が分離している時の鉄板のルールだった。

 

 

 

 

 

給食の話ばかりで、おなか空いたよ。

 

 

 

回想録 小学生編7

今日のポエム

 世界は路上にぶちまけた吐瀉物みたいにぐちゃぐちゃしている。

 

狂牛病

牛海綿状脳症、通称狂牛病、が問題になった時期がある。牛が食べた餌に、異常なタンパク質が含まれていて、牛の脳みそがスカスカになる病気だ。病気に感染した羊を牛の飼料に混ぜてたのが原因らしい。日本では、アメリカ産の牛肉が全面的に輸入禁止になった。代わりにオーストラリアから輸入してたはずだ。


小学校の通学路の途中には、フォルクスがあった。ステーキやハンバーグを提供するレストラン。狂牛病のニュースが出るまでは結構賑わいがあった。
ニュースが流れたあとは、見事な閑古鳥だった。フォルクスは、オーストラリア産牛で狂牛病の心配はないです!広告をだし、懸命に負の印象を払拭しようしていた。大人達を明らかに牛を回避していた。国産の牛も、どの牛もまるで危ない。そんな異様な空気があった。

 

牛の肉が安売りされてた気がする。逆にチャンスだったと思うのに。スーパーには豚肉ばかり並んでいた。ニュースのせいか誰もが、牛を食べなかった。狂牛病は下手すると、人間に感染する恐れがあるから、と。
数年もすると、狂牛病があったなんてこともみんな忘れ始めフォルクスへの人気は戻ったようだ。よく潰れなかったな。イメージキャンペーンは強いよ。悪いイメージは特にね。

 

 

 花火大会

近くには利根川が流れていている。利根川は、日本で川の面積が一番でかい。 流域面積という。 長さが3番だっけ?2番?一番は信濃川だよね。ナイル川が長いくらいしか覚えてないよ。ミシシッピ川も何かすごかったはずやで。


毎年夏の途中に、手賀沼花火大会がある。空にでっかく花火がとびかう。恋人がいればロマンチックなキスができるんじゃないですか?したことないですけど。何か思い出を探ってみたんやけど、見事に1人でいった思い出しかない。というか今年の夏だ。1人で散歩がてら行ってきた。
ひきこもりでも、花火に夏の風情を感じたい。

友人たちと一緒に見に行った記憶はあるんだけど…、女の子とは行ったことないなぁ。

 


手賀沼ボート

手賀沼と言えば、父のヨットの話がある。父はヨットが上手い。手賀沼のヨットレースで何度も一位をとったと豪語していた。最近は歳のせいか、ヨットはやっていない。彼は俺を孕ませた時には50を超えていたんじゃなかろうか。


子供のころの夏休みやら、土日やら、やたらとヨットにのせられていた。その頃の手賀沼は、日本で一番汚いと言われていたときより多少水質が改善されていた。
ヨットは意外とスピードが出る。凪のときはまるで亀のごとくとぼとぼ動くが、少しの風でも吹き始めれば軽快に動き出す。電動ではなく、風を帆にうけて前進する形式だ。ヨットの帆を支えるマストから、横向きに突き出した支柱がある。その支柱を動かして、うまく風を受け止める。


子供の身長でも、支柱にぶつかる。後頭部を強打して、うめく。ヨットは揺れるし、バランスを崩してヨットの中に倒れる。
なんでおれはここにいるんだ?


座って、水面に手を突っ込んで切るように水をかき分けるのはすきだった。水面から飛び立つような、手が水を裂くように切るのだ。水しぶきも気持ちがいい。ずぶ濡れになるまではね。


おたまを洗う

水道の蛇口をひねり、おたまのすくう部分に当てる。十分な高さがあれば、水は曲面を滑りきれいな傘のような形になる。スプーンのほうが分かりやすいか。
不思議でキレイだ。クラゲみたい。いつまでも見ていられる。水の無駄だと殴られて止められるまではね。たしかに水が無駄になる。


上履き洗い

毎週上履きを洗ってたかなぁ?流石にそんな頻度では洗ってなかった気がする。かなり汚い上履きを履いていた。はだしならば、上履きを洗う必要もないのにね。なんなら人間冬以外は全裸ですごすべきだと思う。


夏休みや冬休み、あるいは学期末には必ず上履きを持って帰る必要があった。小学生の学期末は楽しさへの号砲であるとともに、帰宅への憂鬱の時期でも会った。持って帰らなくちゃいけないものが多すぎる。朝顔の鉢やら、道具箱やら、教科書に、以上に多いプリントに宿題類。嫌がらせだわ。上履きに、習字セット、絵の具セットにその他諸々。


机のなかみを空っぽにして、ロッカーも空っぽにする。また来学期同じもの詰め込むんだ。意味わからないですね。家で使わない、使う必要がないものまで持って帰らされたことに抗議すら許されないとはな。治外法権の説明になるくらい、学校ってのは俺様ルールがまかり通っていた。朝顔の植木鉢なんて、持って返ってもろくに世話をする気もない。父が世話をしなかったら、三日で干からびてたろう。あの頃も夏は暑かった。今は温暖化で冬が寒くない。


上履き洗い、特に嫌だった。母からの口出しがね。自発的な掃除がきらいなわけじゃない。むしろ掃除しやすいように整理することはすきだ。部屋はキレイに保つ。掃除もする。皿洗いもすきだ。増えすぎた物の整理もすっぱりする。姉や母は自分のもちものを異常に増やす割に、減らさない。服のクローゼットの99%は姉か父か母の服だ。何年も来ない服をなぜ残す?1%に僕の服を詰め込んでいる。


約4ヶ月分の汚れを一身に引き受けた上履き君は臭く、磨いても擦ってもまるで綺麗にならない。脂がこびりついている。今やつなら熱いお湯に漂白剤でもぶちこむかな。子供のときでも、洗濯機にぶちこんでやれば多少うまくいったかな?子供の非力な手洗いよりは効果があると思う。握力10kgもないぞ。


母は、ピカピカになるまでなんどでもやり直しをさせた。はぁ、監督様は楽でございますね。新品同然にする気もなく、いやいや機械のように磨く。いかにバレないように庭に干して、回収するかが問題だった。根性論とたわしだけで黄ばみが落ちたら、洗剤メーカーはいらんわな。


ジャンガリアンハムスター

ふと思い出した。ペットを一度飼っていたことがある。僕ではない。姉だ。姉は女の子らしく、犬や猫を飼いたがった。母は断固として拒否をした。アレルギーらしい。私はペットに関心はなかった。今でも飼いたいとは思わないな。むしろ人肌のが恋しい。他人の体温はすきだ。落ち着く。


ペットのうんこや尿の世話、散歩の必要性。ペットを飼うにはやらなきゃいけないことがたくさんある。今でも経験値はない。マザー牧場の臭さに、動物はきついな―と結論づけた。でも、子供は口先だけなら頑張るからなんて言うもんだ。


結論として、犬や猫は飼わなかった。が、代わりにジャンガリアンハムスターが我が家にやってきた。小さく、世話の手間がかからない。丁度いいだろうと、父が気をきかせた。姉と一緒に買ってきたのだ。同時期にアニメとっとこハム太郎もやってた気がする。


ハム畜生への思い出は、指を噛まれて血がドバドバ出た思い出がある。俺は負けた。弱肉強食の世界に弟は無力だった。姉は最初は甲斐甲斐しく世話をしていたっけな?結末としては、世話を辞めたんだけどね。めんどくさかったのだろう。


幾日かたって、我が家で出た結論は、ジャンガリアンハムスターを逃がそう。飼育放棄=不法投棄と相成った。ジャンガリアンハムスターは飼育放棄という名の、姥捨山ならぬハム捨山に運命を託された。すでに天国か地獄だろう。俺たちは、太平洋へと旅立つ風船おじさんを見送るような気分だった。(適当言ってる)


ハムスター側としては、鬱蒼とした森に突如餌も何もなしに捨てられる。絶望、だろうか。彼は野生に帰れるのか?ツガイと合う可能性もほぼ0。一生独身。餌を探す術も持っているか分からない。残酷だね。ただ、逃したときこちらを振り返らなかったから、ぺっ、せいせいするぜ。あばよクズども。そんな吹き出しがあったかもしれない。


その時の影響からか、ペットを飼いたいと思わない。猫や犬は可愛い。しかしどうにも自らが責任を持つことに忌避感を覚える。彼らの命を、自らが握る。その重さを背負うが怖いのかも知れない。


まつり

住んでる街では夏に祭りがある。そこそこ大きい。ちっちゃいが山車が街を巡る。むさいおとこわっしょいわっしょい。ステージでは公演がある。出店が駅前の長い道路にずらずらりと立ち並ぶ。


確実に10回以上は行ったことが在るはず。友人たちや、時には家族と。でもどうにも記憶が薄いんだよな。自分が個ではなくて、全体の人混みの一部に過ぎないからか。
使えるお小遣いもそんなにあったわけじゃない。出店の焼きそばも美味しいからというより、腹を満たすため。少し高いな。でもお腹が減ってるし、友人も食べてるし。よし買うか。そんな程度。


鮎の塩焼きは珍しかったから、進んで買ったなぁ。楽しみにしていた、パリサクとはならなかった。皮はへにょ、むに。想像と違った。川鮎いつか焚き火で食ってやる。射的をやったはずだ。型抜きも人生で1度はやったことがある。金魚すくいは下手だった。標的を目標に直線で潜水、垂直に上げる。あー、水風船のヨーヨーは大変すきでございました。どこに消えてしまったスーパーボールも出店でとったものだろう。


祭りはすきだ、と思う。どちらかと言うと、祭りを楽しんでいる人々の雰囲気が好きだ。自らはその賑やかさをつくっても、混じり合っているわけではない。喧騒もあげない。
しかし、その場にいればそのどこか楽しそうな光景の一部になれる。そんな気持ちがある。今でも、どこか憧れのような理想を祭りに持っている。幻想的でぼんやりあたたかく、どこかにぎやかで淡くあかるい場所。僕の祭りの心象風景だ。


オーストラリアと姉妹都市

メルボルンか、シドニーか。トーランスか。オーストラリアのどっかの都市と姉妹都市らしい。姉妹都市、ってなんだよ。明らかに人種違うだろ。


小学校では、姉妹都市から留学?交流にやってくる人たちを歓迎する会があった。デブででかいオーストラリア人しか覚えていない。子供達が交流しにきていたっけ?うーん、かわいい美幼女の記憶がないぞ。多分相手は中学生を超えていた。デカかった気がする?うん、でかかった。


デブででかいオーストラリア人はしばらく逗留する先生らしい。英会話の時間だ。ヘッド、ショルダー、ニーエンドトゥ、ニーエントゥー?サイモンsays?フルーツバスケットもやったな。
道徳の時間をぶっ潰して、英会話ラジオ体操も踊った。小学校の道徳授業で道徳を習った記憶がねぇ。エーミルと蝶は国語だろ?国語でいいじゃん。哲学を学ぶわけでもないんだから。
デブででかいオーストラリア人はフルーツバスケットがやたら強かった。大人気なかったとも言う。走るデブ。今でもどこかで走ってるのだろうか。

 

椅子取りゲーム

でかいデブオーストラリア人といえば、歓迎会で椅子取りゲームもした。最後まで勝ち残ったのは、ヘアピンをした女の子だったきがする。椅子取りゲームは反射神経じゃなくて、ガタイ勝負だからね?そこ間違えないで?


相手をパンチやキックでノックアウトすることは、暗黙の反則だ。イスを力任せに引き寄せ、お尻で相手を吹き飛ばすのは公然の事実として許されてる。ローカルルールじゃないぜ?反則なんてないんだよ。バレても小学生なら許される。なんなら、ひどいやつは見えないように服を引っ張ってケツアタックの威力を増やすやつもいた。素直で純粋な少年僕はルールを理解していなかった。チビだったしな。


つまり、イスを掴む速さ。体重の重さ。ケツのデカさ。相手を殺すことを躊躇わない殺意。これが勝者の前提条件だ。もし、2人同じタイミングで椅子に座ったらどうなる?勢いがあれば、弾き飛ばせるだろ?おどおどしてる引っ込み思案なやつは、一番最初に脱落していく。
デブオーストラリア先生は流石に本気を出さなかった。あの百貫でぶが本気を出したら、少女も何もかも吹っ飛んでったろう。見てみたかったよ。


川崎?川越?初めての校外学習

小学校2年生だったかな。初めての校外学習。日帰りプチ旅行があったはずだ。遠足ともいう。ヤクザの街川崎、ではない。小学校連れて行くか?川がついた場所で、紫芋が有名な場所に行った。
川越、だっけ。500円のお小遣いを両親から受け取り、アイスを、食べたっけ?ろくな記憶力じゃねぇ。名産の紫芋アイスの代わりに、良くわからないおもちゃのちっちゃい刀剣類を買っていた気がする。マスターハンドの装備が増えた。一人遊びの彩りは大事だ。

 

I先生

小学校の僕のクラスは4クラスあった。担任は1クラスを2年間担当する。クラス替えも2年毎。クラス替えとともに担任も変わる。1,2年生、3,4年生、5,6年生で区切られているわけだ。ぼくは1-1,2-1,3-4,4-4,5-2,6-2だったかな。6年間一緒だった少女がひとりいる。3,4年制の担当はI先生であった。女性。吹奏楽部の担当。てことは、吹奏楽部あったんだな。小学校にも。いつもジャージを聞いてた。小学校の先生はジャージが標準か。


I先生にもめっちゃ怒られた記憶があんねん。高校まで怒られたことのない先生がおるのか?聞かないでくれ。
I先生は教室に自腹で本棚を作っていた、なんだか面白い題材や、子供向けのいたずら本などを朝に紹介しては本棚に置いた。どの本も小学生の心をうまく捉える素晴らしいチョイスだった。
人面犬口裂け女の本を置いたのはあたい許せへん。

 

手形をとる日があった。先生が丁寧に1人ずつ、朱肉を塗っていく。水を弾くのは若い証拠なんだよ。と、目の前の誰かを褒めていた。僕の手へ感想はなかった。え、なんか言うてよ。泣きそう。あるいは、そんな毎回同じセリフを吐かないか。36人以上おるんやぞ。ドラクエの村人じゃないんだから。


保健室の先生

先生といえば保健室の先生だ。女性である。低学年のときは、ぱっとしないおばさんだったが。4年生くらいに新しく新任した先生が天女みたいな女性でしたの。
美化されている?否、断じて否。中学生で再開したときも女神だった。すげー美人なのに性格がフランクで話しやすい。結婚しよ。心で終生の告白をした。同級生には、実際に付き合ってください!と言ったやつもいた。君、早熟すぎない?早熟君は中学生で異様なエピソードを残した。性的な意味だ。友人から成人してから教わった。早熟君すっごい。彼は立派なヤリチンになった。


名前が、あぁああ思い出せない。なんだっけ。焦る。喉元まで、前頭葉あたりでぐるぐるなにか回ってるのに。悔しい。え、ほんま。いちばん大事だろ。I先生とかどうでもええわ。担任の名前は覚えてるのに、肝心の女神のご尊名を忘れるなんて…。信者失格だ。


彼女は朗らかで笑顔のきれいな女性だった。初恋、だったかな?だったかも。彼女の教えてくれた一つのエピソードがある。ある日彼氏にこっぴどく振られた。なんのこっちゃってあの日は思ってたね。振られたとか振ったとか、恋愛の言葉も知らなかった。
過去への精算として、彼女は自らの髪を丸坊主にしたそうだ。思い切りが良すぎる。男らしいわぁ。残っていたら髪をください。彼女には少しの嫌味も感じなかった。大人のお姉さん。彼女に会いに保健室に行くのは楽しみだった。


日々どこかしら走り回ってアドレナリンラッシュ。脳内麻薬ドパドパな大麻ボーイだった。むろん生傷切り傷擦過傷が耐えなかった。体中痛い。過去最高に絆創膏と消毒液を消費したらしい。記録抜かれたくないなぁ。彼女に会う理由にもなってグッジョブである。


あ!もう一つエピソードを思い出した。腹痛で病院に連れて行ってもらった。
学校での当然の腹痛ほど、辛いものはない。トイレで粘っても何も出ない。授業中もお腹を抑えて、脂汗を流す。冷や汗も出て、呼吸も辛い。保健室に行ってこいと言われる。保健室に行くと、盲腸の可能性があるから病院に見てもらおうと行った。
病院に連れて行ってもらう。幸い盲腸ではなかった。先生はジュースを買ってくれたな。内緒だよ、そう言いながら。

 

母が来るまでは何も話をできなかった。話したかったさ!お腹が痛くてやばかった。お腹の痛みが人の想像できる最も強い苦しみだと思う。
彼女にはほんとに感謝である。小学校、中学校、高校で出会った先生の中で誰の好感度がもとっも高いか?官女が確実に一位だ。いつかまた会いたいね。おそらくもう結婚しているかもしれない。幸せに日々を過ごしていたら嬉しい。本当に愉快で明朗な人だった。ただ祈る。

 

 

 

さよなら三角またきて四角

 

 

 

回想録 小学生編6

 

 はじめに

 不幸自慢をしたいわけではないう。過去の憎しみを種火に、復讐の業火を継ぎ火してもいない。ただの確認であって、強いて言うなら文字を書く練習でもある。人は習慣によって形成されるらしい。自らの為す行動が、信念になるとのころだ。過去の思い出は、題材としてたまたま都合が良かった。

 

Cromeのブラウザでwriteordieというサイトを使っている。自分が書いてる時間と文字数を計測してリアルタイムに見ることができる。素敵なサイトだ。使い勝手が、よかった。しかしどうもあまり信用できなくなってしまった。メモ帳を使うことにした。


書いた内容が、当然暗転して消えてしまうことがある。PCのメモリの問題か。無料版だからか?無料版だからと消されては溜まったもんじゃない。シリアルキラーか?
オンライン系統ならクラウドに下書きが保存されるアプリを使うべきだね。
書いた内容を思い出しながら書くと、わりとダメな仕上がりになる。仕方ないな…。全く新しく1から書き直すか。

 

本題


9.11

2001年。アメリカの貿易センタービルに、アルカイダのテロリストが乗っ取た旅客機が突っ込んだ。俺は家にいて、居間のテレビでぶつかるその瞬間を間近に見た。
テレビは生中継だった。テロリストが何かを要求しているとアナウンサーが伝えている。あぁそうだ。確かアルカイダの首長がアメリカに捕まっていた。テロリストは、首長の解放を要求していた。

 

アメリカのポリシーはテロには絶対屈さない。そう言ったのはだれだっけ。
少なくとも当時の大統領ジョージ・W・ブッシュは要求をのまない決断をしたようだ。結果として歴史に1つの事件は誕生した。
アルカイダ支配下にある旅客機は、貿易センタービルに突っ込んだ。テレビの中では、黒い煙がもくもくと立ち上がり。ビルが徐々に倒壊していく様子をまじまじと見ていた。調べると、テロリスト4人と旅客機の客44人は全員、逝ってしまったようだ。


本当に生中継だったろうか?幾度も幾度もニュースで映像が流れるうちに改竄が起こっているかも知れない。もっとも改竄は回想録全体にわたって発生しているだろうな。


ニューヨークに私は行ったことがある。後々話すことになるかも知れない。大人時代だから、今の小学生時代の遥かにあとの話だ。上手くいけば、話すことになる。


ニューヨークのグラウンドゼロも見に行った。グラウンドゼロとは爆心地、つまり貿易センタービルの跡地だ。地面は大きな長方形型に切り取られていた。石段のような柵で囲まれている。切り取られた穴に向かって、水が流れていたかも知れない。石段は墓碑だった。9.11で死んだ人間の名前が刻まれている。

 

私は悲惨な事件であると知りつつも、共感し体験できたわけではない。凄惨さや凄まじさを追想することもなかった。ドライな人間だと言えばそこまでだが、どうにも現実味をおびない。教科書で習う、核を落とされた長崎広島の人々の痛みを追想できないように。


文字や写真で表現されるような、足が負傷しひしゃげた登山家を想起したことがある。彼の片足は滑落の襲撃で、短くなっている。スネがひしゃげ、大腿骨にぶつかるようにひどく折れ曲がっている。片足は壊れた。動けない。体のあちこちも壊れている。動こうとすると稲妻の如き鋭い痛みが体中を走り回る。

 

つい想像してしまう。まるで自らが体験したかのような痛みを感じる。前頭葉がぐつぐつ違和感をはじめる。頭の天辺にも血液が集まっているかのようだ。胸に動悸がはしり、不安になる。我が身に起こったわけではないのに。痛みなど感じていないのに。


時として、物語は僕に強い痛みや不安を体感させる。まるで当事者のような気分だ。強いストレスがかかる。苦しいへの共感と呼んでいる。自分にも、今にも起きるかも知れないと思ってしまえる描写なら、文字や絵や写真問わずどんなものでもどんなときでも起こる。共感性羞恥とも言われる現象らしい。羞恥より痛みだが。


9.11には苦しみへの共感をもたなかった。人ではなく、出来事だからかも知れない。無数の見知らぬ人間が死んだろう。9.11とは個の悲劇ではなく、群への悲劇だ。
出来事をまるで現実の事実だと認識しても、幻想であるかのように感じた。動悸も痛みも、いたましさも感じなかった。フィクションであるかのようだ。自分事ではなかった。


オウム真理教

覚えてない。ニュースで連日放送されて、麻原彰晃の顔写真を覚えているくらいだ。おとなになってから、事件を全容を調べて改めて知った。

 

騒音おばさん

「ひっこし!ひっこし!さっさとひっこし!しばくぞ!」
カラーを巻いた大阪のおばあちゃんみたいな人だっけ。布団を布団叩きでたたき、隣人に威嚇している映像がニュースで報道された。学校ではただ、おもしろネタにして笑っていた。2chではフラッシュアニメも作られ、当時かなり話題になっていた。

 

都市伝説も在る。騒音おばさんは実は被害者かも知れないという噂だ。被害者は実は、宗教団体に所属しており、最初に嫌がらせをしたのは被害者だった。そう書かれていた。気になるわけでもないが、現実は混沌としている。どちらが真実かも私が分かることではない。


姉とテニスの王子様

テレビで一つ思い出したことがある。テニスの王子様のアニメだ。午後7時だったはず。学校で流行っているのか、姉はテニスの王子様のアニメを楽しみにしていた。
父が帰ってきた。父はチャンネルを変えた。姉はひどく動揺し、懇願した。要求は通らなかった。ありふれた日常だった。そんなものだ。


陸上部

小学後の4年にもなると、部活に参加することができる。ある意味高学年の特権である。小学校1年生から3年生は授業が終わり次第、すぐさま家に変えるように指導されていた。授業が終わったあとも部活をするために学校に残れる。部活はそのための場所だった。陸上部とバスケ部、歌唱部と吹奏楽部があった。吹奏楽部は、なかったかもしれない。

 

姉は歌唱部に参加していた。ピアノの教室にはまだ通っている時期だろう。彼女は音楽の初心者ではなかったからね。ゆえの歌唱部。
私が4年生になると、姉はすでに中学1年生であり卒業していた。姉の影響もなく、私は陸上部に入った。なんでだっけね?友人と一緒に入ったのだろうかね。肝心のその誰かを思い出せないから、1人で決めた可能性もある。運動はすきだった。体育の時間か、給食の時間が学校の価値だった。


部活は義務ではなかった、帰宅部でありたかったら自由に帰ってよかった。ゆるい繋がりの場。陸上部ではどんな活動をしたっけか。直線のレーンを使って、腿上げ、ウサギ跳び、ジャンプなどのウォームアップ。50m走る。そんなもんだったと思う。公立の小学校だし、大会などもなかった。


練習の終わりには、リレー競争があった。これは楽しみだった。高学年がグループ分けをして、チームごとに競いあう。私は速く走れるわけではなかったが、走ることはすきだった。
私の運動センスが開花するのは中学校2年生以降だ。身長が170cmを超え、運動全盛期がやってくる。


ディズニーランド

ディズニーランドに行ったことはある?僕はある。自慢することではないな。初めて行ったときは、家族4人全員で一緒に行った。幼稚園にも満たない、幼いときか小学校のほんの低学年のときだろう。ほとんど記憶はない。ミッキーやミニーとの写真が残っている。シンデレラ城の中にはいったこともあるらしい。いやー、覚えてないねー。


どのアトラクションをのるにも、身長制限に引っかかっては親と一緒だった。身長は117cmあるかないか。119cmだったか?もっと小さい時もあった気がする。身長制限に満たない時代に最低2回は連れて行ってもらってそうだ。ダンボやら、ジャングルクルーズ程度しか乗れない。ビッグサンダーマウンテンや、スプラッシュマウンテンは強敵だった。ビッグサンダーマウンテンに乗れたとのいつのことだか。


小学校では高学年に友人たちと行くこともあれば、母と姉と行くときもあった。中学校の卒業あたりで友人たちとも行ったね。高校生でも一度行ったはず。
家族と、特に母と行くことが多かった気がする。母と行くと、夕食に決まって食べるごちそうがあった。チキンだ。


ホーンテッドマンションを抜けスプラッシュマウンテンの脇?ジャングルクルーズの側?ディズニーランドのマップが全く頭に浮かばない。ディズニーの全体地図の右上あたり、だっけ?鬱蒼としたジャングルにあるウッドハウスがチキン売り場だ。ディズニーランド版ケンタッキー。


胡椒と脂でどしんとくる味。テッシュでつかもうものなら、すぐにあぶれに侵食される。手で持つのとあまり変わらない。手で持てば、胡椒と肉汁が指にながれる。
噛み付くと、パリパリの皮は塩っ気とスパイスに驚き、中の白い肉はなんとも柔らかい。味つけされた皮と白身を上手く噛み回し、ちょうどいい塩梅に食べる。肉が吸いとった油がまるで肉汁のようだ。揚げ物のさだめとして、冷めたらまずい。パサパサで、ただかたいしょぱいの塊になってしまう。油もひどい。だから、口を火傷するのを恐れずむしゃぶりつく。無心に口に詰める。時には、うっすら色づいた指をなめとる。水で脂を流す。終わるまで無言で集中する。うーん、食べたくなってきた。


このチキンを食べるたびに母はこういった。「油ものを食べる時に水を飲むとお腹を下すよ」と。デマだと思う。経験的に下したことは一度もないから。少なくともディズニーランドで下痢した記憶はない。おしっこがしたくてたまらないときはあったけど。
母は、そういった根拠のない都市伝説をよく語った。その割に根拠を考えないから、平気で矛盾した行為をする。度し難いなぁと思う。

 


ホーンテッドマンションでIスクリーム

ホーンテッドマンションは演出がうまいよね。ホーンテッドマンションの建物の中に入るまでに雰囲気が作られている。アーチをくぐれば、古びた西洋の館。花壇は古びている。暗い雰囲気だ。噴水や柵もひどく重々しく、がっちりとしている。鎖は随分重々しく、頑丈そうだ。まるで映画の中の一場面。水の中にコインがぶちこまれてるのは、中国人のせいか?建物中に入ると蜘蛛の巣が張り巡らされている。狭い個室に案内される。肖像画が喋りだす。ホラーもおばけも苦手な少年の心は砕ける。


実際にアトラクションにのってしまえば、途中で逃げることはできないわけだから行くとこまで行くきゃない。まぁ、途中下車できるんだけどね?何人も下車されたら、スタッフとしては手間だろう。怖がりでビビリな奴らをふるい落とすのに、全体の雰囲気は役立っている。人件費削減ですよ。


思い込みがひどい人や、物語に上手く気分をあわせられる人。彼らが始めてであるならば、うまくアトラクションの楽しむ演出にもなる。ひとさじのスパイスだ。私と言えばいざ!と覚悟決めるまでもなく泣き出した。アトラクションに乗る手前で私叫び声をあげ逃亡。後続の人への良い演出だろう?さらばホーンテッドマンション。初めてのれたのは小学4年か5年か。蓋を開ければ、大したことなかったな。ビビらせやがって。しかし、ホラーゲームはいまでもNG。ご遠慮いたします。


怖さや不安にとらわれ、試す前に逃げてしまう性質。神経質と、呼ぶのだが。神経質な性質は、時が流れた今でも私の中に潜んでいる。親友みたいなもんだね。

 

ティガーのジェットコースター

子供は身長が足りないがゆえに、強い傾斜を落ちたり、スピードの速いアトラクションが危険である。身長制限があり、のせてもらうことはできない。すっぽぬけたら大惨事だぜ。


だが安心してほしい。世界一気配りができて、子供も楽しめる場所。それがディズニーランドのコンセプト。子供用のジェットコースターももちろん存在する。身長制限もない。おもてなしですよ、お客様。


ティガーの家がテーマになっているジェットコースターがディズニーランドにはある。全体地図で左の、下あたり?適当いってます。
その日は、おもちゃ箱ことA君とA君の母親。僕と僕の母で行ったのだっけ。永遠とティガーのジェットコースターに載っていた。時間はもう夕暮れ。そろそろ帰る直前だった。


そんな時間になると人気はない。乗る人が1人もいなかった。乗り放題。なんどでも。貸切状態。最高。

 

30回は最低繰り返したはずだ。というか回数を重ねることに時代にたぶん快感を見出していた。無限に終わることないメリーゴーランドがそこにはあった。ほっておかれたら、多分死ぬまでのってたんじゃないかな。無限ループってこわい。
あの時の狂気的な熱狂はそう思わせる強さがあった。何度目かの最後の1回をぶっちぎり、とうとう終わりはやってきた。ディズニーの区切りの音楽だ。さらばティガー。またくるよ。
ディズニー・シーにはマーメイドのジェットコースターがある。そのジェットコースターでも似たような体験をした記憶がある。そのときは中学生だっけな…。


プーさんのハニーハント、いやバズライトイヤー

おそらくこれが最後のディズニーエピソードになる、予定だ。思いついた最後のストーリーである。中学生編だと、またいくつかあった気がする。


ディズニーに新しいアトラクションができた。プーさんのハニーハントバズライトイヤー。どっちが先かは覚えていない。
母と姉と僕でディズニーランドにいった。舞浜行きではなく、逆向きに乗ってしまって焦った母と姉。はなくそほじるぼく。なんとか無事についた。

 

プーさんのハニーハントに向かってみると、8時間待ち。おそろしいな日本。これに並ぶって狂気だよ。並んでるやつが多すぎる。
姉のプーさんはだめだ。ハンターが多すぎる。ハチミツの生産量もヤバい。ではいざバズライトイヤー。12時間待ち。ここらへんで幼い僕には日本の偏執さに気づいてほしかった。やべー、なげーって感想で終わった。日本人やべぇよ。いやディズニーファンがやべーのか。


もちろん、並べるはずもないから別のアトラクションに行くしかない。ぶらぶらとそこそこ空いてるような、あまり空いてないようなアトラクションに乗る。ジェットコースターには乗れる身長だったはず?違う、かも。


夕方になって、もう一度確認してみようとなった。プーさんのハニーハントを見に行くも6時間待ち。姉は現実の辛さを知った。バズライトイヤーは4時間。
もう時間間隔がバグっていた。よっしゃ並んでみるかと並び始めた。しかし少年の4時間は大人の4ヶ月。辛抱強くない活発な少年は、列のあまりののろさに嫌気が差してしまった。

 

じゃあ、どうしたか。彼は行列をショートカットすることにした。行列は蛇腹状になっていた。ロープを1つくぐればかなりの人数をショートカットできる。
え、それって横入りじゃないの?Exactly。大正解です。彼は善悪を知らなかった。欲望に忠実だった。両親の顔が見てみたいよ。チンパンジーじゃないはずだ。


姉と母がそばにいたはずだが、止める間もなく少年はロープをくぐってしまった。彼らはどう思ってたろうね?ものすっごい大迷惑をかけている、恥ずかしい!と思ったろうか?それとも、しめしめ馬鹿な少年のおかげで不可抗力に時間を短縮してアトラクションに乗れそうだぜ、とでも思ったろうか。


事実として、私は咎められることなくとんでもない人数をカット。大幅に時間を削減!エコ!そんなわけでアトラクションにのった。無事のれた。
スタッフにつまみ出されて、出禁をくらうこともなく。他の来場者の皆さまからクレームがとんで、ブーイングと列から追い出されることもなかった。あるいは、そんなクレームに気づかなかっただけかも知れない。悪気がないってすごい。


肝心のアトラクションの中身は大して覚えてないな。トイストーリーのバズが持っているおもちゃの銃を渡されて、的に向かって引き金をひく。当たっていれば点数が入り、最終的にどれだけ点数を獲得できたか楽しむアトラクションだ。


終わったら終わったで、すっごい楽しかった!と言っていたろう。個人的には、列をショートカットする全能感に脳みそをやられていたから、アトラクションはおまけだったような気もする。


帰るときに、バズライトイヤーのメモ帳を買ってもらってご満悦であった。いまでもそのメモ残ってるんだよね。紙がないときは使ったりする。

 

 

ではまた、明日。

 

 

回想録 小学生編5

早速今日もせこせこ書きます。

 

初めてのゲーム

人生で初めてゲームをプレイしたのは年少だったはずだ。今の実家に引っ越しをしたあと。外でぼけっとしてると2つ隣の若い近所お姉さんと出会う。彼女も暇なのか、彼女の家に招待してもらった。ショタコンバンザイ。ファミコンが会ったのかな?初代のスーパーマリオブラザーズをプレイした。でも、初代にキノコが足場になったステージなんてあったっけ?

 

近所のO君の家には、スーパーファミコンがあった。色がついてヨッシーの出てくるスーパマリオワールドを横で見ていたな。もっぱらゲームはよこから見るのもすきだった。自分で横スクロールのマリオを手に入れるのはスーパーマリオ3だ。ゲームボーイアドバンスを買ってもらった時に手に入れた。

 

姉の弟にスーパーマリオ3を貸したら、頑張って集めた貴重なアイテムを全部使われてぶっ殺したくなった。スーパーマリオ3では羽マントは貴重品なんだよっ!!!!!本人は謝りに来ず、そいつの姉がソフトを返しに来た。そいつとはもう合わなくなったな。自分より年下だったし。


ゲームボーイゼルダの伝説 大地の章

我が家の初代ゲームボーイはおなくなりになったが。父がゲームボーイカラーを買ってくれた。ありがとう父よ。子供時代の暇つぶしが1つ増えた。低学年の時はゲームよりも、外で走り回るほうが多かった。

 

主な遊びとしては、おもちゃで1人スターウォーズがお気に入りだった。女の子がおままごとなら、俺のリカちゃんはかめはめ波を放つ武闘派であった。マクドナルドのハッピーセットについてきたおもちゃのピポサル。3Dモデルのデフォルト立ちみたな形をしていた。そんなサルでもマトリックスの如く見えないビームを避け、空中を飛び回っていた。トピックスから関係ないな。


ゲームボーイカラーが手に入った。最初のソフトはたしかポケモンクリスタルだった。じゃあ、ゼルダの伝説大地の章はどこから来たんだ?分からない。謎である。しかし、たしかに姉はプレイしていた気がする。大地の章は、季節を変える魔法の杖がテーマのゲームだ。季節を変えることで、地形が変わり、敵が変わり、道が開く。そうやって復活したしぶといガノンドロフに再度の引導を渡す。ゴキブリみたいなやつだ。なんかあまり話せることないな。ゲームボーイアドバンスで出たリンクと不思議の帽子のが多分話せる。

 

 

一人おもちゃ遊び

古い記憶で時系列がわからないが、アニメのゾイドが子供頃よく見ていた。日曜朝枠だった。初代ゾイドだ。初代のゾイドは、青と白がメインテーマのライオンのような機体に主人公が乗っていた。

 

主人公は、髪がオールバック気味で、顔に絆創膏を張っていた。彼は毎日絆創膏を変えてたんだろうか?案の定影響されて、意味もなく鼻の頭に絆創膏を張っていた。へへーんとかいいながら、鼻を人差し指でこする。指についた鼻水は、そのまま服に掃除される。ひたすら自分でなめて掃除してたかも。鼻くそもわりとよく食っていた。鼻くそ食ったことないやついる?どんな金持ちの子女さまだろうと、鼻くそを食ったことがあると考えると心が落ち着くんだ。安倍晋三も鼻くそを食ってた時代が確実にあるぜ。今日は話題がそれる日だ。


なんでゾイドかっていうと、初めて買ってもらったプラモデル型組み立ておもちゃがゾイドだった。アリゲーターを買ってもらった。ワニ型の機体。振り返ってみると、物質的なおもちゃを結構買ってもらっている。ありがたいことだ。もっとも破壊されたりするから地産地消だ。マッチポンプともいう。

 

アリゲーター型のおもちゃを組み立てる。アリゲーター空海地全てを縦横無尽に横断した。ときには、事故と称して親のケツにダイレクトアタック。時には、自分の右手の人差し指と中指と決戦する。我が右手のマスターハンドは負け無しだった。おもちゃなんかに負けるわけがないだろ。忖度ありありに決まってる。


そんな一人遊びの立役者のアリゲーター君も、いつのまにかどっかになくしてしまった。母の仕事で連れていかれた、見知らぬ誰かの家に忘れていってしまった。悲しかっただろか?シーンは覚えてても、感情は残りにくいね。


そんなわけで、一人人形遊びの楽しみを覚えた僕は、おもちゃ箱に人形やピポサル、リカちゃん人間、ときには不定形。ぬいぐるみはいなかったな。やべぇ、ピポサルとリカちゃんしか具体的に覚えてない。他にも役者はいたはず…。おもちゃ箱には何かしらいたはずなんだ…。ピポサルと右手のクレイジーハンドだけじゃないはずなんだ…。

 

右手のマスターハンド、左手のクレイジーハンド

手でちょきをつくる。そのまま、ちょきを地面に立たせる。人型最終兵器俺、誕★生。あらゆる地形を踏破し、空を飛び、海をも縦横無尽に駆け巡る。壮大な映画にも出演。監督、演出、脚本、全部俺。群がる敵をバッタバッタと薙ぎ払い、ときにはミサイルとして友達の頬をえぐる。最終兵器はグーパンチ。いけいけごーごーぶっ飛ばせ―。不可視のビームとエネルギー弾をぶっ放し、世界を蹂躙する。生かしたヒーロー、右手のマスターハンド君。左手のクレイジーハンド君だ。

最近は彼と遊んでない。子供の俺はてすりがあれば彼を呼び。お風呂の中でも彼を呼び。ベッド中でも彼を呼び。人形遊びでピポサルをぶっ飛ばす。いつでもどこでも、彼と遊んでいた。最近はもっぱらオナニーにしか使われてない。マスターハンドのマスターはマスターベーションのマスターである。子供の時代だって、まさしく自己満足。オナニーみたいなもんだ。オナニーほど楽しいことはないって昔から知ってたのか。

 
花の蜜、木の実

学校には花が植えられている花壇区画があった。学童保育教室の前だったかな。その花壇には、赤い花が咲いていた。名前はわからない。花は開いていないタイプで、つぼみのような細長い花から、なにか生えていた。語彙が貧弱過ぎる…。例えるなら、花のペニス?かな。


その花から生えてるペニスをちぎって、根本を吸うと甘い蜜の味がする。こう書くとすっごいビッチ。甘い蜜は、季節の味だ。だから赤い花がちんこを生やすたびに、ちんこをぶっちぎって蜜をチュウチュウ吸っていた。吸血鬼の気分。

 

花壇の直ぐそばには校庭だ。砂が舞い、蜜が砂っぽい味のときもあったが、それでも美味しかった。花を全滅させる勢いで引きちぎり蜜を吸っていた。なんならちんこを引きちぎりまくって、教室の授業中すらも吸ってた気がする。競争相手もいた。最初は仲良くそれぞれテリトリーを守って、収穫してた。やっぱ、なくなってくるわけよ。戦争よな。あやつも馬鹿であり、俺も馬鹿だった。ゆえに争いは起きた。殴りではない、奪い合いである。第1次資源獲得戦争である。彼とは小学生を通して、仲良く遊んでいただいだ。

 

ちんぽって表現したけど。ほんとうに多分めしべかおしべなんだよね。あの小学校では確実に受粉できなかったと思う。馬鹿な低学年も真似し始めたからね。集めた蜜を牛乳に入れて、貴族ごっこまで起こっていた。牛乳ですらマウントをとる小学生がいた。

 

 

竹馬

校庭の脇には用具入れがあって、中には遊び道具が詰まっていた。昼休みのたびに、担当の先生が鍵を開ける。お気に入りだったのは竹馬かな。競うようにして、高いゲタの竹馬に乗るのが流行った。不思議なのはまずどうやって自分の背丈を超えるような竹馬に乗っていたのかってこと。そしてどうやって下りてたんだってこと。本当に疑問だなぁ。

 

あ、思い出した。校舎の壁を使って竹馬に登ってた。竹馬を支柱に、背中を校舎の壁にこすりつけるようにずるずると高さを稼ぐ。馬鹿だけど、頭いい。下りるときは飛び降りてた。高いところから飛び降りるのは少年の特権でしょ。木に登って下りられないのは、恐怖を知って悪い予測を知ってしまったからだよ諸君。無知ならなんでもできる。

 

曲芸のピエロみたいな竹馬に乗ってるやつが何人かいた。引きずり倒してやった。俺と花蜜戦争したやつも、高いゲタの竹馬に乗れるやつだった。俺は、低いゲタの竹馬で競争するほうがすきだったんです。それに、子供は相手にちょっかいをかけて鬼ごっこするタイミングを常に探しているんだ。社会人ももっと鬼ごっこしろ。

 


ブックオフ

家の側にブックオフがある。漫画は買ってもらえなかったな。悪魔と妄想の本なんだと。否定はしないね。でも、母と父は確実にゲーム脳とか、そういうデマに踊らされる人だった。ゴシップニュースの素晴らしいお客様ですね。ゲーム脳という言葉がこの世から消滅してほんと嬉しいよ。最初に提唱したやつは未だに許してないけどな。明らかに締め付けが厳しくなった。母だけじゃなく、父もゲームをぶっ壊すようになったからな。STAP細胞なんかよりよっほど大変だったぜ。

 

ブックオフは宝の山だった。個人的にはブックオフと言えば、ドラゴンボール、である。言ったことある人なら分かるはずだ。ブックオフの漫画は基本的に歯抜け。1巻があることが珍しくて、連続して1,2,3,4,5とあってもそこからいきなり次は17巻!なんて当たり前。ブックオフは一期一会だった。

 

ほとんどの場合、品揃えは大して変わらない。時間を開けていくと、運がいい時もある。やべぇ!ドラゴンボールフリーザ編が全部あるじゃん!な日。ちょうど抜けてた巻が保管されているときとか。

 

105円のときは、数少ないへそくりを使ってちょこちょこ買い集めていたなぁ。倉庫を探せばフリーザー編はないけど、セルゲームの終わりあたりから完結編まではあるはずだ。焚き火されてなきゃね。ブックオフは210円のときと105円の値段があって、見た目は全く変わらないのに210円だとえーって思っていた。買えないから。


ゲットバッカーズ幽遊白書ハンターハンターガッシュベル、ほんといろんな漫画に出会えた。作者様に印税は1円も入っておりませんがね。へへへ。楽しい楽しい夢のような時間の一つであった。門限をぶっちぎって家から締め出されても、反省しているふりをしてブックオフに行くのだ。温かいし、暇も潰せる。最高だろ?10時までしかあいてなかった気がするけどね。どうせ1時間2時間じゃ、やつらの気は済まなかったしな。

 


定規ブレイド

刀はすきか?ライトセイバーは?俺は大好きだった。今もすきだ。日本刀も、ライトセイバーも手に入れることなんでできやしない。ほしいのはおもちゃじゃないのだ。体験がしたい。実際に切り捨てたい、分かるだろ。

 

定規の登場である。30cmの竹定規だろうと、15cmのプラスチック定規だろうか立派な名刀。名もなき雑草をバッタバッタを切り捨てる。手足をまず切り捨て、最後には首を切り、胴体も惨めに真っ二つ。俺は剣豪。手足は枝葉っぱのことな。上手くすぱぁーんと切れると気持ちいい。

 

切りごたえのある刺客は、早いものがち。通学路の雑草で背の高いやつはレア物だった。だれの手のついてない野原なんて、一生遊べたね。夏よりも秋あたりのほうが切りごたえのある雑草が多かった気がする。ただ難点は、秋は引っ付き虫がやばい。そういえば引っ付き虫爆弾とかした覚えがある。獲物は、人には向けない、危ないから。でも、あたってしまったらしょうがない。いざ、尋常に勝負。俺はグーで殴っていた。反則をしらないやつらだった。

 

くっつき虫爆弾

秋。くっつき虫の季節。セーターは絶対に来ていきたくなかった。半袖半ズボンで駆け回るほど、元気でもなかった。寒さには結構弱い。将来は温暖な気候で、のんびり暮らしたいなぁ。北海道は俺には向いてない。

 

通学路でくっつき虫を集めに集める。慎重にこぼさないようにね。標的を見つけたら、背中に流し込む。終わり。彼は死ぬ。たまにセーターとかにぶっこんでたけど、あれ確実にだめになってたよね。俺もよくやられた。ひどいと授業中に、くっつき虫がクラス中を乱舞していた。まだ冬の雪をつっこまれるほうがマシだわ。

 

 

歩きおしっこ

親父はよく立ちションをしていた。おれもよくした。よく?するときはするくらいか。いつのまにかしなくなったなぁ。分別がついたんですかね。親父は今でもしてると思うぞ。だって、俺が子供時に親父は大人だろ?

 

ある日、ゴミ箱に缶を捨てるために父の車を出る。いい案が浮かんだ。ズボンを下ろし、ゴミ箱に向かう時に歩きながらしょんべんをする。最高の一石二鳥じゃん。帰ったら親父にぶん殴られた。なんなんだぜ?

 

立ちションのメリットのほうがおれには少ないと学んだ。小学校の通学路で漏れそうでも、頑張って耐えて家できちんと解放してたしね。

 


おばあちゃんとゲームボーイカラー

父の母。俺にとってのおばあちゃん。彼女は老人ホームに生息していた。父は良く見舞いに行っていた。個人的な主観と偏見に基づいてクズエピソードばかり話されてる父だ。父は、自分の母に対してはひどく優しかった記憶がある。いや、老人を痛めつけるような人間だったらもう救いようがねぇか。鬼畜米兵ね。

 

父は本をよく読み、幅広い知識を持っている。DIYもして、壊れたものも自分治せるすごい人でもある。時計やらラジオやら、自転車やら。けっこう何でもできる。自分に対する関心が強い人とも言えるね。

 

何ヶ月に1回か。俺をつれて、おばあちゃんの顔を見に行く。俺は車の中でなら、普段取り上げられているゲームができるからついていってた。

 

いま思い出したんだけど、海賊版のソフトを持っていた気がする。えぇ、なんでだ?どこから手に入れたんだろう?2年生の頃の、中国旅行のときかな?そのソフトは起動すると、12種類くらいのゲームを選び遊ぶことができた。スーパーマリオのパチもんで、マリオの代わりにぴかちゅうが動くやつとか。ボンバーマンのパチもんとか。ゲームウォッチのパチもんも入ってた気がする。あれは一体なんだったんだ?

 

とにかく、暇つぶしにはことかかなかった。おばあちゃんとの会話なんてロクにしてなかったね。父に言葉を言わされるスピーカーみたいなもんだ。父が俺に「おばあちゃん元気でねって」。俺繰り返す。ゲームに戻る。あれ何の意味があるんだろうね。お世辞の下位互換どころじゃない。挨拶の下位互換の可能性すらある。0を-1するような動きだ。電池が切れるまで、思う存分にゲームをし、暇潰す。おばあちゃんと出会うとはそういう場所だった。


何回かお金をもらったことがあるけど、取り上げられてたよね。ふざけんな。

 

 

ポケモンクリスタル

ゲームボーイカラーと一緒に買ってもらったのは、ポケモンのクリスタル版だった。ポケモン緑も再開できるって意味だが、結局クリアせずに放置していた。四天王あたりで、PP切れで積んだ記憶がある。カメックスハイドロポンプとふぶきとなみのりが切れちまったんだ。わるあがきでカメックスは息絶えた。


クリスタル版は女の子を主人公に選べる。クリスという名前。相棒にはほのおタイプのヒノアラシを選んだ。2番めのジムのあとだっけな?ライバルと戦う。相手のゴースにノーマル技が効かない。え!?え??とものすごい焦った記憶がある。ひのことか覚えてたはずなんだけどな。トゲピーを育てたくて、ゴースと戦闘させていたからな。お互いに有効打がない。千日手。相性なんて知らないよ。ガンガンいこうぜ

 

あとはバクフーンに覚えさせたかみなりパンチが強かった。クリスタル版はメリープが出ないことを知らなくて、草むらを必死に探したな。もちろん出ない。殿堂入りして、攻略本を見てから知った。ショックだったなぁ。

 

シロガネ山には言ってない気がする。レッドと戦った記憶がない。いや、戦ったっけ?目の前が真っ暗になってのか?攻略本でみたかっこいいバンギラスがほしいなー、どこで出るんだろうなーとうろうろしていた記憶しかない。

 

ポケモンルビー

ゲームボーイアドバンスの時代だ。ポケモンルビーのときは小学3,4年生か。ある程度理性的に思考ができる時代だ。タイプ相性を覚えて、弱点をつく。ゲーム内の機能もある程度理解している。そしてデマに踊らされる。

 

トクサネシティという場所に、意味ありげな石ある。そこにものすごい回数話しかけると、ワカメッチというキャラクターが手に入ると学校で聞いた。デマなんですけどね。くそが。あの時代の噂はとりあえず試してなんぼだった。噂の大本も不明だから、数撃ちゃ当たるが普通だったね。中には本当に情報ある。ポケモンパールの波乗りバグは数少ない、正真正銘のバグだった。

 

相棒には水タイプのミズゴロウを選ぶ。進めていく途中で、キモリのほうが欲しくなって。キモリ、かっこよくね、って。時間をかけて育てたヌマクローも失うに惜しい。そうだ、友だちに一旦預けて返してもらおう。

 

で、最初からにする。キモリを無事手に入れられた。トラップ発動;ある程度進めないと他人と交換可能にならない。びーびー泣いた。ぬまぐろぉーがぁあびゃあぁあんんぉおおおん。理性的とは一体何でしょうね。現実を受け止められなかった。目の前が真っ暗になった。

 

友達の門限が迫り彼は帰ってしまった。ゲームを進めてから返してもらえばいいんだけど。返してもらわなかった気がするなぁ。キモリが進化したジュカインはかっこいい。ヌマクローとかもうどうでもいいじゃん、と多分なった。単純なのはいい。


最終的にバトルタワーでさんざんにぼっこぼこになぶり殺されて辞めた。バトルタワーを勝ち進むには、本当に強いポケモンがいる。レベルだけじゃだめなんだよね。

 

ポケモンには隠しステータスがある。隠しステータスを理解してないと、強いポケモンは作れない。キングドラが欲しくて、シードラを無駄にレベル上げていた記憶が残っている。ルビーはいつのまにかなくす。後に5年ほどして中学校くらいにA君の家に忘れたことが発覚して、無事手元に戻ってくるんだ。

 

 

プロアクションリプレイ

おもちゃ箱のA君。彼はどこで知ったのか、ゲームを改造するマシンを持っていた。その名もプロアクションリプレイ。コードを正確に入力しさえすれば、ゲームの中身を改造できるって代物。貸してもらってポケモンルビーは一気に世紀末。別のゲームロックマンエクゼ・グレイガもとんでもないことに魔物に進化してたな。

 


母に攻略本を隠される

ポケモンルビーの攻略本を母に買ってもらったはずだ。機嫌がいいとこういうことも起こる。棚からぼたもち。攻略本って楽しいのよ。ずーっと見てられる。自分の知らないこととか、知らないポケモンがたくさん乗っている。暇さえあれば読んでいたかな。読みすぎて取り上げられた。
母の部屋のクローゼットに隠されていることを発見してたから、特に困らなかったね。

 

ゲームキューブ

ゲームの話が続く。連鎖的に思い出すんだよ。ゲームキューブGC)はクリスマスプレゼントとして買ってもらえた気がする。クリスマスプレゼントは中学生くらいまでもらえたなぁ。


GCではマリオパーティ6?だっけな。64時代にマリオパーティ1,2,3も持っていて、GCでは6を買ってもらった気がする。メインじゃなくて、サブのミニゲームにビーチバレーモードがあった。あれほんと楽しかった。


最初はちょっと操作方法に慣れがいる。ボールが来るタイミングに合わせて、ボタンを押さないとボールは浮かばない。パスが繋がらない。CPUはEasyでもパスをつなぐのはうまかったから、パスすら繋げないとどうしようもない。


スマッシュが最高に気持ちいいんだよねー。ボールの方向をうまくコントロールして、きれいなパスに大して強打できる最高に気持がいい。ハードCPUをボコボコにするレベルまでやりこんだ。


もっとも残念なことに、GCでもあまり遊べはしなかった。GCは基本的に倉庫に鍵をかけられて、しまわれてたからね。クリスマスプレゼントってなんだろうね。

 

 

 

 

また次回。

 

 

 

 

 

 

回想録 小学生編4

 

 

小学生編4

 通知表

小学生において、通知表なるめんどくさい紙を受けたわる。小学生の時に5をとったことがない。あんな紙が残ってるとは思えないので、事実関係を確認できない。


テストはお遊びみたいな難易度で、いとも簡単に解くことができたが。授業態度は一般平均から見ると、平均から著しく下回る存在だとみなされる。仕方ない。授業中立ち歩く、イスで遊ぶ。授業をそもそも聞いてないんだから。平均をつくるためのものさしで、異端者は常に外れ値になる。

 

先生は大変お仕事に疲れているから、アホな幼児に構うより、物分りのいい子と付き合いたがる。人間関係ってそうでしょう?だれが一緒にいてストレスになる人と付き合う?先生は人間だ。


そんなひどい通知表を家に持って変えると、またひどいことになる。しかし、親は絶対であり従順な犬であった俺は素直に通知表を渡していた。仮に捨ててたとしても、ろくなことになりゃしないだろうと本能で理解していた。探してくるまでごはん抜きとか、家に帰れないとか。そこらかな。授業態度が落ち着かない、先生の話を聞きましょう。くどくどと教育という名の折檻を受け、罰として課題が終わるまでイスに縛り付けられる。もうアホかと。

 


さくらん

モーニング娘がテレビに良く出ている時代だった。さくらんぼ。メロディが記憶に残りやすい記憶だ。通知表を受け取るたびに、替え歌にして歌っていた記憶がある。
イントロあたりは
「手帳開くと もう 2年たつなぁって
やっぱ実感するね なんだか照れたりするね」

「通知表を開くと― ぼくは障害児だった
やっぱ実感するね なんだか照れたりするね」と歌い。

 

サビは
「笑顔咲くー 君とつながってたい
もしあの向こうに見えるものがあるなら」

「あたまばかー よこはーはげー」と歌っていた。うろ覚えだが。
モーニング娘はカバーだったのかな?俺の記憶だとモーニング娘が歌ってた気がするけど、調べると大塚愛さんが歌ってたらしい。誰かわからない。モーニング娘のメンバー?モーニング娘加護ちゃんしかわかんない。


ある日、森の中

替え歌といえば、森のくまさんも下品に替え歌にしていた。
「ある日、森の中、くまさんに出ああた
花咲く森の道、ちんぽこどっこいしょ
ラララ らーらーらーらーらー」と。
突然思いついて、歌い始めたのはテスト中だった気がする。教室は静かだった。オレ一人が突然教室で歌いはじめる。
学校のテストは、終わった人から前に持っていく。自分が早めに切り上げてもみんなが終わるまではぼーっと待つ必要がある。すごい暇な時間。
テストが終わるまで、永遠とループ再生を続けていた。その日の自分は静かで暇な時間なんて滅んでしまえばいいと思っていた。あるいは、何も考えていなかった。多分後者だな。行動は常に衝動的だった。


通学路と父のエロ本

家までの最後の横断歩道を渡るとの一本道がある。よくエロ本が落ちていた。といっても小学生俺はエロ本を気になりつつも、とる勇気と持って変える勇気は持っていなかった。近づいて屈んでみても、雨や地面の湿りで水没したようになっていることも多い。汚いし、どうにも近寄りがたかった。隙きありゃ読みたかったけどな。


姉が、父の部屋でエロ本を発見した。たしか3冊在った。いつのことだっけね。とにかく姉弟は読むことを決めた。3つ全部は呼んでない気がするが、1冊記憶に残っている写真がある。エロ本は和室のふすまの裏にあるそうだ。ふたりはふすまにこもって、戦利品を分け漁った。時間制限ある、たまたま両親が今日は家にいない。今しかない。


あ姉さん?美人ではないがきれいな目をしていた。30代くらいの女性が、服を着たまま、スカートをたくし上げ、パンツを下までずりおろして立っている写真だ。顔は微笑んでいた。ちんこが固くなった。俺は勃起という言葉を知らなかった。おちんちんがかたい!!着エロ好きになった原点はここか?


もっともその頃はなぜ勃起するのか、かたくなる意味もよく理解していなかった。親には、見て!骨が入った!とか言って自慢をしていた。親父はなぜか褒めていた気がする。わけがわからない。勃起をするとおしっこがたくさん出る。そんな認識だった。
エロ本という響きに好奇心をかられていたが、しかしなぜ女性が裸になっているのかは分かるはずもない。セックスのシーンがなかったんだよね。俺の精通は確か中2か中1のはずだ。


PCWindows2000

この記憶は、5,6年生辺かもしれない。いや中学生かなぁ。
家には、Windows2000があった。パソコン、でかいブラウン管みたいな見た目。親父がどこかから持ってきた。家の連中はどいつも機械音痴。幼い頃は知らなかったが、あいつらとんでもない。説明書も読まないで、適当に操作して壊れたとか、動かないとか言ってた。

 

そんなわけで、PCをよくいじるのは俺と姉くらいだった。起動だけに5分もかかっていたように思える。しかし、プログラミングやソースコードが気になるようなエンジニア気質ではなく。その頃流行っていたフラッシュ動画を楽しんでいた。ハゲの歌。ショーコーショーコ。マリオが踊ってるやつ。


あとは、フラッシュゲームがあったか。横スクロールだったり、クリックしたり連打したり。エロフラッシュとエロアドベンチャーもその頃が全盛期じゃないかな。オナニーも精通もしていなかったが、本能で好んでいた。狂ったようにエロフラッシュゲームを遊んでいた。


スナイパーで女の子を狙撃して脱がすゲーム。もじもじと動く女の子を触るゲーム。ブロック崩しはあまりしなかったな。思えば、二次元絵に惹かれた原初の体験はエロフラッシュゲームかもしれない。懐かしい。オタクの原点だ。

 

揺り椅子

2階にある父の部屋には、揺り椅子が置いてった。暖炉前、おばあちゃんが毛糸編む時に座っているような足が曲線にカーブして、前後に揺れるイス。あれだ。


ぶらぶらと揺れてるだけでも、好きだったし。前後に勢いをつけると、勢いが残りイスが前後に滑り動くのも好きだった。勢いをつけすぎて、前に吹っ飛ぶこともあった。目の前がタンスであるがゆえに、痛い思いをする。
その程度の痛みより、遊びによる楽しさのほうが優先する。当たり前だろ。痛みはいつだって日常だけど、楽しみは得られう瞬間が限られている。

 

しかし、とある日僕がその揺り椅子で遊びすぎて、足が壊れてしまったんだよね。結果、揺れないイスになってしまう。イスは処分された。揺り椅子と畳は終の棲家に必ず設置しよう。

 

 

ウクレレ

弦がびろびろ。ろくに音もなりゃしないウクレレがあった。誰も引いてるところを見たことがない。いつの間にか消えてなくなっていた。いや、俺が破壊したんだっけ?

 

A君の家

Aくんが引っ越しから、また戻ってきて。同じ学校に通い始めてから、彼の家によく遊びに行くようになった。1年、2年程度離れたはずだけど、以外にも仲が良かった。不思議だねぇ。


俺の頭の中の、A君の家は中学生の頃の記憶で固定されているため。小学生の頃は良く思い出せない。ただ、すげぇ汚かったことは覚えている。彼の部屋はゲームとPCの配線でごっちゃごちゃになり、お菓子のゴミや脱ぎ散らかされた服などでゴミ屋敷みたいになっていた。

 

不思議と不快感なんてなかった。彼の家は4部屋構成だった。リビング、彼の部屋、彼のお母さんの部屋、もう一つの部屋。マンション?アパート?その中間みたいな場所だった。彼の部屋はまるであらゆる遊びがあるかのようだった。ラジコンの存在を知ったのは彼の家だった。初めてプレイステーションを見たのもそうじゃないかな。

 

ただゲームがメインというより外で遊ぶほうがメインだった。家の中より、外で走り回っていた時間のほうが遥かに長い。みんな無尽蔵のスタミナをもっていた。マンションの隣には、大きな神社があった。神社の裏手だ。雑多に木が生えまくり、土の地面。神社はひどく寂れていて、だれか人がいる素振りがなかった。A君そして、A君の友人たちとは、サッカーしたり。走り回ったり、木に登ったり。ラジコンを追いかけ回したり。そらもう夢中で遊んだ。門限まではね。門限を過ぎると、家に鍵がかかり、入れなくなる。毎日のように締め出されたね。詳しくはいつか話そう。

 

家の近くのK君

俺の家の目の前にK君が住んでいる。彼とはまったく仲が良くなかった。同級生なんだけどね。なんだろうね。1回も会話したこともないんだよね。道路挟んで目の前だよ?いわゆる幼なじみ。1回も話したことも、遊んだこともない。Kくんに俺は確実に嫌われてるんだなぁと思っていた。苦手だなぁとも。ちなみに嫌われてると思う原因のあてがある。俺はガイジだったし、彼の家の壁にボールを当てる壁蹴りをしていたからだろう。

 

小学生で指をしゃぶり、はだしな俺。1年生2年生の頃はとりわけ友達が少なく、1人で遊ぶことが多かったと思う。家の前にボールを持っていて、1人で壁蹴りをしていた。あるいは、服をこすりながら指をしゃぶる。

 

K君の家は、大きな道路に面していて、大きな高い壁があった。つまり、ボールを蹴って跳ね返すのに最高の壁だった。高い壁であったから、力を入れて蹴り飛ばしてもたいてい場合は跳ね返ってくれる。しかし、壁を超えフェンスを超え、K君の家にボールが入ってしまうことがたまに、いや、かなりあった。100回は超えてないと思うけど。10回は超えてるだろうな。

 

最初のうちはインターホンですみません、と言ってた気がする。いや、本当か?初っ端から、不法侵入上等で庭に勝手に押し入ってボールを取りに行ってた気もする。どうやってあの高い壁を登ったんだ?だが、確実に何度も登ったことがある。K君が怒りながら、ボールをこっちに放り投げてきたこともある。壁蹴りの音で、うるさいわ、ボールは家に蹴り込んでくるわ。そりゃ嫌いになるわ。見ようによっては、嫌がらせである。幼い彼めっちゃ起こってたもん。

 

ゆえに、小学校と中学校で同じ学校に通うも、彼とはまったく会話をしなかった。まぁ、明らかにガイジで頭のおかしい少年が幼なじみでもしょうがないわな。実際に今も引きこもって、薬漬けだしよ。

 

まるで忘れていたが、家の近くのO君

Oくんの中学校以降はまったく知らない。そもそも中学校で会話はほとんどしなかった。K君といい俺は幼なじみと上手く行かない運命なのか。
かわいい女の子が幼なじみにいなくてほっとしてるぞ。

 

低学年のときはO君の家にもよく遊びに行った。よく遊んだ時期は、それはもう異常な頻度で遊びに行っていた。遅くまでOくんの家に入り浸ってたなぁ。向こうの親が、家の人が心配するでしょう?とやんわり言ってたのは、思い出せばそりゃ向こうの夕食の時間でしたからねぇ。馬鹿な少年の、大丈夫大丈夫。ってはなしではないわな。実際にO君の家で、夕食をとるほど歓迎はされていなかった。とった記憶ないもん。つまりそういうことだ。子供同士は仲が良かったが、家族間の仲は存在しなかった。政治ですか。

 

私の家の周りは住宅街で、ドーナツ用な形状の道路が在る。キックボードをお互いに持っていたから、1周するのにどちらが早いかよく競争した。O君はサッカーの少年チームに入っていたようで、サッカーもよくした。直線に長い道路もあったからだ。この直線に長い道路にK君の家は面している。つまりサッカーボールはよくKくんの庭にゴールインされた。K君は遊びにまったく参加する素振りもなかった。Kくんのことを俺全く知らないなぁ。なんだか気になってきた。Kくんのことは足が速い以外しらないんだわ。

 

O君家にはゲームキューブがあり、マリカードDXでよく遊んだ。Oくんの弟、近くに住んでる女の子。名前は忘れた、Uさん?の4人でよく遊んだ。Uさんはすぐに引っ越したからあまり記憶がない。そんなわけで、走り回ったり、遊んだり。それは楽しく遊びまわっていた。

 

ある日、Oくんとの関係は唐突に終わり告げた。いつだったろうか。遊びで、取っ組み合いをした。ケンカではない。彼らO君と弟が、俺にプロレス技をかけ。俺はO君と弟にプロレス技をかけた。相手は胸を地面に向けて寝て、相手の背中に乗る。彼の足を持って、背中側に曲げる。調べたら、逆エビ固めだ。腕ひしぎ十字固めもした。笑ってはいたが、相当痛かったのかやせ我慢してたのかもしれない。あるいは帰ってから痛んだか。その日のよる、O君の母から電話がかかってきた。O君ともう遊ばないでくれと。そうか。俺はドライだった。そうやって終わった。


学校が同じだったから、会うときは会わざるえなかったけどな。大変気まずい重いをした。個人的には、かなり彼とはいい関係だ。仲がいい。そう思っていたが、完全に勘違いだったらしい。あるいは、彼も親に逆らえない子供だったか。我が家のような両親であったのだろうか。真実は分からない。

 

ニンテンドー64

今でこそ、あまりやらない、と言おうとしたが。別にやってるな。ゲームの話だ。姉がゲームボーイをもらっても、母に取り上げられてすぐこの世から物理的にお亡くなりになった話はしたろう。それでもゲームを買ってもらうことはしばしばあった。誕生日やら、姉のねだりやら。両親にたまたまなにかいいことがあって、機嫌がいい日とか。

 

ニンテンドー64はそうやって我が家にやってきた。持っていたゲームはマリオカートと、大乱闘の2つだった。後々ゼルダの伝説時のオカリナを中古で買う。コントローラーは2つあった。灰色と黒だっけな。マリオカートは姉とよくやって、幼い俺に対して容赦なくクッパでいじめてくる非情なやつだった。風船バトルで軽量級を使うと、クッパにぶつかるだけで風船が散る。バランスおかしいだろどうなってんだよ。
大乱闘は1人でよく遊んだ。姉ともよくやっていた気がするが。基本的には1人でプレイをしていた。大乱闘は俺のほうがうまかったんだよね。ボッコボコよ。フォックスがすきだったな。いま大乱闘やるならドンキーコング使う。おれは、俺が想像するより無意識にゴリラを愛しているかも知れない。なんてこった、俺はゴリラがすきだ。シルバーバックより、くろぐろとした毛のゴリラが好きかも。

 

母はゲームに時間制限をつけていた。30分とか。1時間ももらえるわけないわな。ひどいときは10分とかだった。セーブの必要ないゲームだからいいけど、ポケモンで時間制限をつけられたときは泣いたなぁ。ポケモンはセーブしないと進行度が保存されない。任天堂のスイッチが子供のプレイ時間を制限できる機能があるのは知ってるか?それも大事だけど、いちばん大事なのはオートセーブ機能だろうね。自らが獲得したものを失うってのは、子供でも辛く傷つく。彼の努力と時間、意思、選択、全ての否定だ。残酷で、決して行うべきじゃない。
おい、語り部が役割を放棄するな。仕事しろ。お前の仕事は自分語りじゃない。回想だ。

 

時間制限なんぞ、俺の強い意思の前にはムダムダムダァ!熱中してるときにいかに時間に気づく?それも幼い子どもが。周りの声は聞こえなくなる。目の前だけがクリアになり、思考がゆっくりはっきり深くなる。素晴らしい集中力の訓練だった。外部から、遮られなければ。ゲーム嫌いな母はただ命令を聞かないことに腹を立てるだけだ。そして強い暴力を持つ。物理的に線を引き抜かれ、ニンテンドー64はすぐさま家のどこからに隠された。64がのびのびと自由を謳歌したのは3日もないはずだ。

 

64くんと再会するには、母のご機嫌を伺いながら平身低頭でお願いするしかない。アウシュヴィッツの刑務官かよ。もちろん、俺はトレジャーハンターになった。日々インディー・ジョーンズだ。スリルと冒険の旅。時には危険も犯す必要がある。

 

64には大きく分けて4つの構成要素がある。本体の筐体、ごつい電源ケーブル、テレビ接続する3色ケーブル、コントローラー。もちろんソフトもいる。この構成要素のどれか1つでも書けると、ゲームはできない。どれか1つは毎日神隠しに会う。ゆえに、母が家に存在しないとき、あるいは母が自分と同じ階にいないとき。常にゲームを部品を探し回ってた。時には姉と協力し、時には孤独に。冷蔵庫の上、布団の間、服の中、ときには母の手の中。鍵のかかった倉庫のなか。ここまで隠すことに情熱を捧げられちゃあ、トレジャーハンターの血がうずくってもんよ。鍵のかかった倉庫の中は簡便な。でも車の鍵程度だったら、鍵をちょろまかしてよく探したものだった。この家では、礼節や信頼学べない。代わりに立派な空巣や泥棒になる方法。人を観察し、欺く方法を学べる。

 

ゼルダの伝説時のオカリナ

いわずと知れた神ゲーである。が、まとまった時間はとれなかったため、クリアはしていない。別の理由もある。ブックオフの中古品を姉が買ってきたはずだ。64のソフトは、ソフトの中にセーブデータが保存される。古い人のデータがそのまま残っている。試しに残ってるセーブで起動すると、ハイラル城下町の時の神殿からだった。7年後、大人時代のリンク。ぼくは子供、おばけとホラー大嫌い。暗いところも怖い。電源ボタンをソッコーで消した。

 

大人時代のハイラル城下町にはリビングデッドがいる。ラスボスのガノンドロフは世界を滅ぼしつつある。活気の会った街は廃墟だ。時の神殿から出て、城下町を出るにはリビングデッドがうようよさまよっているまちを通り抜けなければならない。俺には無理だった。無力だ。リビングデッドの姿、声、攻撃。全てが俺の心をビビらせた。体が縮み上がった。あいつら手をこっちに向け叫びながら、ゆっくりと追ってくる。リンクに近くなると、突然早くなり抱きついてくるのだ。手も足も頭も全てで絡め取ってくる。ハグよいうより、融合。うぉおおおおおおおおおおおおって泣き叫んだ。セーブデータを消してやった。悪は滅びた。

 

はじめからやり直しても、最初のダンジョンすら怖かった。蜘蛛の魔物スタルチュラやら、寄生獣ゴーマやら。謎解きのギミックがまったくわからないやら。パチンコではしごを落とす、そんな発想も当時の僕は分からなかった。デクの樹様もクリアできずに放り投げた。だから主に姉がプレイしているのを、横で見ていた。横で見るのは楽しい。だから、配信とかも好きだな。いつか配信をすると決めている。


母の猛攻をかいくぐりながら、我らが姉氏は健気に冒険していた。デクの樹さまから使命を教わり、育った故郷に分かれをつげる。幼なじみの少女から形見を受け取り、広い広いハイラル平原から世界を知る。わくわくしたなぁ。牧場では仔馬のエポナと出会う。城の城下町を抜け、堀を飛び跳ね、兵士の目をかわす。そして、ゼルダ姫と出会う。自らの使命と、運命を再認識する。自分の進む道を知る。

 

カカリコ村からうわてに見える火山でゴロン族と出会う。ゴロン族の族長と意気投合し、求められた助けに手を差し伸べる。怪物ドドンゴを殺してくれと。幼い少年リンクとともに、姉も僕も楽しんでいた。最も現実と同じように、世界を救う旅や人助けは甘くない。ドドンゴの洞窟でかなりの時間詰まっていた。
ははは、ドドンゴの洞窟は強敵でしたねぇ。

 

ブックオフで買った攻略本

姉の冒険は、ドドンゴの洞窟に屈しようとしてしていた!!!しかし、姉はブックオフで攻略本を見つけた。まるで現実でも冒険がいるなんてな。私達の家から5分ほど旧街道ぞいに歩いていくと、ブックオフがある。ブックオフは最高の場所だ。漫画読み放題、天国でしょ。作者様にお金は入らないが。その話は次にとっておくか。


姉はゼルダの伝説時のオカリナを本当に楽しんでいたようで、攻略本を見つけたことをひどくよろろこんでいた。誰が買ったのか分からないが、姉のお小遣いで買ったんじゃないかな。あの攻略本いまどこにあるんだろう。表紙はリンクがエポナにのって、エポナが前足を雄々しくあげている絵だ。黒とシルバーの色合いでダークっぽい演出。恐ろしいと感じつつ、かっこいい表紙だった。あまり分厚いわけでもなく、薄い攻略本だ。最終戦ガノン戦まで載っていた。

 

姉は、ドドンゴの洞窟に入ってすぐにある、でかい恐竜の頭骨の謎に躓いていた。頭骨の目に当たる部分に火を灯すと、口が謎の技術で開いてボスの部屋が開くんだ。正攻法だと、ドドンゴの洞窟の途中で手に入る爆弾を使うとわかった。謎解きはお金によって解決をした。よっしゃ、ボス戦や。姉は見事に勝ち、1つの冒険がまた幕を開けるのだった。攻略本が在るから、もう道に迷うことはない。次にやることがわかっている。為すべきことを為すだけだ。

 

ゾーラの里に向かい、でかいクジラの腹に入る。ブーメランでやたらきもい触手を姉はキレながらぶっ殺していた。3つの宝玉が揃い、いざハイラル城下町へ。ゼルダ姫と再会し離別。追ってからにげるゼルダ姫が落とした時のオカリナを胸に、時の神殿で7年間の月日を移動する。リンクは大人になった。カカリコ村へ向かい、王家の墓地で鬼ごっこ。フックショットをもらう。姉が入る墓の場所を間違えやがったせいで、リビングデッドがうじゃうじゃいる墓に入りやがったことを覚えている。姉の背中に隠れた。

 

次の目的地は各所の神殿、なぞの青年シークに導かれ各地の封印を開放するたびに出る。まずは森の神殿だ。森の神殿はなんなく、突破、したっけ?ボスにキレ気味だった気がする。炎の神殿へ、けっこう苦戦してたなぁここ。炎の壁がせり上がってきて、正しい道じゃないと通れないところがある。コントローラーを地面に投げつけてたと思う。彼は頑丈だった。俺は音に放心して何も言わなかった。炎の神殿ではハンマーが手に入る。そこからはすぐだったね、ボスの炎ドラゴンにぼこぼこにされてたけど。ヴァスバジラ?とかそんな名前。空から突撃してくるときに、龍の顔をハンマーでぶん殴るとダメージを与えられる。タイミングが上手く測れなかったんだろう。コントローラは結構な回数床とキスをしていた。

 

最後は水の神殿、最後?うん、最後。彼女は水の神殿で結構な時間ぶちのめされた。最終的には、水の神殿をクリアしたけど、闇の神殿で彼女の冒険は終わってしまった。代わり光の神殿に行ってたな。あ、最後じゃなかったわ。


水の神殿は、カカシの思い出しかない。藁でできたなぜか動くカカシ。ダンジョンでは、カカシを呼び出せる。カカシをうまく呼び出して、謎を解いていくんだけど、幼い俺には攻略本を呼んでもまるで理解ができなかった。今でもしてないです。あれ攻略本なしでできんの?だから、なんとなく水の神殿は、難しい!!!!と思い込んでいる。大人なので?今やったら、よゆーよ。当たり前でしょ。

 

ドドンゴの洞窟以来、姉は水の神殿のギミックに苦しめられていた。オカリナで音を奏でると、水の水位を変えることができるんだ。うまく水位を変えながら、進むのに苦戦していたね。ある日天啓が浮かんだのか、友達に聞いたのか、冒険が一歩前進した。それから、攻略本様に従いボスまで一直線。とはならなかった。

 

中ボスにダークリンクという、やたら強い中ボスがいる。闇落ち主人公クローン。ボッコボコにされとった。アイテムの妖精、体力が尽きても復活できる救済要素、をフルに使ってゴリ押してた。レバガチャで運勝ちとも言う。基本的に脳筋なんだよな彼女。水の神殿のボスにもブチギレながら最終的にはぶっ殺していた。やるじゃん。妖精様様だな。

 

闇の神殿はー、あそこめっちゃ怖い。暗いし。闇の神殿に行く前に、カカリコ村にある井戸の底にいくんだ。井戸の底では、まことのメガネという、通常見えないものが見えるようになるアイテムが拾える。井戸の底のボスをぶっ殺せたらね。そのボスは別に強くはない、しかしすっげぇええきもい。地面から何本も手をはやし、背中からも手を何本もはやしていた。ダーウィンさんも頭も抱えるよ。

 

攻撃としては手に掴まれると、動けなくなりもがく必要がある。レバーをがちゃがちゃしながら、姉が切り捨てた。レバガチャとゴリ押しに定評がある。そしていざ、いかん闇の神殿。はじまってすぐに、姉は闇の神殿を諦めた。いや、ほんとすぐだった。ギミックが意味わかんなーいって行ってた。空中を一定歩数あるける、ホバーブーツ?みたいな靴と見えないものを見るまことのメガネで上手く進んでいくみたいなんだ。姉はまことのメガネをあんま使ってなかった気がすんな?そりゃきついやろ。見えないだから。

 

姉氏は、ここで戦略変更。最後のダンジョン、光の神殿を先に救うを決意。長い砂漠を幽霊さんの道案内で超え、いざ光の神殿へ。ちなみに、リンクが各神殿にいるボスをぶっ殺すことで、封印された賢者の意思が蘇る。全ての賢者を蘇らせることで、世界を闇に染めたガノンに対抗できるようになる。時のオカリナはそんな話だ。光の神殿はよく覚えてないなぁ、さくさく進んでた。ボスの二人の魔女ツインゲルドも、姉は操作に慣れてたのかあまり苦戦せずに殺ってしまったね。最も彼女の冒険はここで終わるのだけど。彼女は闇の神殿を諦め、結局ハイラルの世界は救われることなく幕を閉じたのだ。いつか再挑戦してほしいね。


少し前に会ったとき、最近というかちょっと前に出た、Switchのゼルダの伝説の最新作ブレスオブザワイルドを楽しんでいるようだ。ラスボスのガノンは倒してないと言っていた。なんでやねん。倒せや。

 


ダイゴロン刀

ダイゴロン刀を知っているだろうか。ゼルダの伝説時のオカリナでは、最強の攻撃力を持つ武器だ。伝説の剣よりも強い。ただし盾は使えなくなる。両手持ちだからな。強い、のか?分からない。使ったことがない。


この最強の攻撃力は、わらしべイベントを最後まで達成することで手に入れることができる。物々交換をしていくと、ご褒美としてもらえるのさ。最後の1歩前まではあまり難しくない。時間制限もなく、だらだら攻略本に従えばいい。


しかし、最後の物々交換はシビアな時間制限がある。目薬をダイゴロンという巨人に渡さぬばならぬ。姉はつまりにつまった。3分かそこらで、結構な距離を移動しなければならない。平原を馬で駆け抜け、火山を登る。移動の終盤では、岩が降ってくるやら、登る崖では蜘蛛がいるやら。上手く言ったとしても、ダイゴロンにうまく話しかけられなくて失敗するわ。散々に失敗していた。失敗のたびに床はコントローラーを激しく受け止めた。床が傷つくと、母がブチ切れるからほどほどにな。道中は万事うまくいっても、緊張からかダイゴロンにうまく話しかけられず失敗したのは正直笑った。コントローラーの破壊音で我に返ったけど。姉はそこでダイゴロン刀への挑戦を諦めてしまうんだよね。ちょっと残念だ。いま64は父が倉庫に鍵をかけて閉じ込めてしまったから確認できない。壊れてなかったら確認できるだろう。所持品には目薬の原料になるカエルくんがいるはずだ。


おとなになってから、ダイゴロン刀について調べたら、裏ルートがあるらしく、正攻法以外でかなり楽なルートがあると知った。炎の神殿から、裏手の出口を抜ければすぐ会えるらしい。あの時代にインターネットがあればなぁ。

 

 

休憩

父と母が出てくると、ついつい思い出の方向が負に向かってしまう。どうにもね。性分かな。

 

 

 

 

回想録4  小学生編その2

時系列がはちゃめちゃ

 

ポケモンのビデオ

VHSと呼ぶのだろうか。うちにはビデオデッキがあった。テレビで放送されたアニメや戦隊者を録画しては、暇があればずっと見ていた気がする。
ポケモンアニメは初代だったはずだ。サトシ、カスミ、タケシがいた。ビデオに保存されていた内容は、赤い長い髪をワックスで固めた女性、ムサシの話だった気がする。ムサシが自転車にのって、チェーンを振り回していた。あはははと笑っていた。どんな光景だ。


あとはポケモンリーグ戦の場面かな。リザードンがゴローンを地球投げして破壊するシーン。あぁ、キングラーもいたな。サトシがオーキド博士から借りたキングラーがやたら泡をふいていた。水上のステージだった。マダツボミケンタウロスも出てた気がする。ケンタウロスはじわれを使って、結局まけて目を☓にしていた。割とマイナーなポケモンが活躍してるんだな。

 

 

ガオレンジャー

ガオレンジャーアバレンジャー?通称日朝枠。日曜と土曜日の朝は、朝6時にいつも目が覚めた。
アニメがやっているからだ。大体6時30分から~10時30分くらいまで子供向けのアニメが土曜と日曜日にはやっていた。女の子も向けのものも、男の向けのものもあった。
おジャ魔女ドレミがやっていた気がするが、正直かなり記憶に薄いんだよね。ピンクと紫と眼鏡の少女は覚えている。


子供の僕にあっていたのは、仮面ライダー系列より、戦隊モノであった。ガオレンジャーが特に好きだった。緑の色のゴリラの乗り物バナナを敵に投げつけると相手が爆発する。意味分からんが、緑ゴリラは本当に好きだ。


気づかなかったけどゴリラマジで好きかもしれねぇ。遊戯王にも怒れる類人猿っていう、類人猿ではなくゴリラそのままのカードがあった。好きでした。
動物園でもゴリラが一番好きかもしれない。英語の教科書で、ボノボの話があった。ボノボは好きじゃないんだ。なぜか。

 

ぴちぴちぴっち

前述の通り、日曜朝。土曜朝にはアニメがやっている。選り好みをしなかったので、少女向けアニメをもちろん見ていた。
プリキュア初代を見た記憶がある。白と黒。あとは、ぴちぴちぴっち。こっちはちょっと記憶に残る会話を小学校でした。


習字の時間だったろうか?クラスの女の子達が、ぴちぴちぴっちの話をしていた。そこにN君?U君?だれだっけ。まぁ、やんちゃな少年ももちろんいる。3年のことだっけな?
そいつは確実に”ぴちぴちぴっち。”を知ってると俺は今でこそ思ってるが。ぴちぴちぴっちのことを、”ぴちぴちぴちぴち”?と仰っしゃりおる。正義感爆発、そう嘘は許さない。俺は「違うよ。ぴちぴちぴっちでしょ?」と正した。なんで知ってるんだよ?と言われる。そりゃ見てるから知ってんだよ。
だが、N君はようするに、「お前女の向けのアニメ見てんのかよ。やーい女女~」とつなげるわけだ。女の子も「えー?!」なんて言いはじめる。ぴちぴちぴっち見ちゃ悪いか。ぴちぴちぴっち。人魚の話だ。ぴちぴちしてるだろ。返信もする。足は、生えたっけ?

 

墨汁

基本的に学校には様々な細かい道具を要求される。ホッチキスやら、ハサミやら、絵の具や筆やら。お裁縫セット、は中学校か。体操服に赤白帽子。上履きも。ものさしに、鉛筆、消しゴム。なんじゃこりゃ。私は授業に必要な道具が、何か1つか2つ。あるいは全部が足りないことがたたあった。


墨汁もその1つだった。買ってもらえなかったんだっけ?汚れまくった習字セットの墨汁容器は空っぽのままだった。墨汁がなきゃ、授業に参加できないわけだ。文字書きたいわけじゃないけどさ。


習字の授業は、3,4年生だっけな?自分の字が汚いな―ってことを認識していたから、好きでも何でもなかった。ある日、先生から墨と水で墨汁を作れることを知るまでは。先生も薄々気づいてたんだろうか。なんでこいついつも墨汁もってないんだ、って。
作り方を知ってからは、ずっと墨を水にこすっていた。音も感触も、色の変化も気持ちいい。透き通った水に黒い線が滲んでいく。やがて線が漂いながら広がり、真っ黒になる。続けるとより黒が深くなる。水に黒い線が滲んで広がって幾何学みたいになる瞬間がもっとも好きだった。今でも無心にいつまでもできる自身があるよ。


ファーストキス

1年2年生とかの時系列をバラバラに思い出したものを羅列している。めちゃくちゃ。


ファーストキスは親をのぞけば、いや自分から主体的に親にキスを望んでないぞ?赤子のころな。親父にキスされた思い出がある。ホモかよ。姉はどれくらい成長したかを父に弄られてたなぁ。危ないよな。危機一髪、近親相姦はなかったらしい。父のセックスはヨーロッパだったら、家庭内レイプに認定されてたろうしな。日本人のあの時代でよかった親父。


ファーストキスは、男だった。H君。聖人みたいな名前をしていた。いや、キスじゃないか。昼休みに鬼ごっこをしていたところで、お互い前方不注意。交通事故でどっきゅん。唇はずきゅーんばきゅーん。唇と言うより歯である。顔全体である。顔全体で頭突したともいう。


周りがやたら囃し立てるもんだから、ふたりとも顔を赤くし、苦笑いしながら教室に戻った。追求してくんなやめろとうるさいなーと。気になるなら、お前らでしてみればいいだろ。

 

中学生の頃に、仲が良かった同じ部活でアホのAR君がいる。そいつがM君に盛って、ディープキスをかましたのを覚えている。M君中性的で、身長もかなり低かったからなぁ。正確もかわいかった。M君も、ちんこに指サックはめられたり、中なかおもちゃにされてんなぁ。ARのきもいディープキスはともかく、ちんこ指サックは嫌がってなかった気がするんだよなぁ…。


A君

小学生の3年、4年生以降を語るにあたって、絶対に避けれない。私の原初の記憶がある。A君だ。彼は1年生の頃は同じ学校に通っていた。母がA君の母と仲良くなり、A君とよく遊ぶようになった。前述のARとは別人である。


2年生頃だろうか。A君は家の事情で、別の学校に引っ越すことになった。さよならA君。しかし合縁奇縁はあるもんで、1年か2年後A君はまた同じ学校に戻ってきた。私はやがて文字通り、一日中彼の家に入り浸ることになる。


彼はたくさんのおもちゃ、たくさんのゲーム、そしてパソコンを持っていた。彼はおもちゃ箱の主みたいな人だった。喧嘩することもあったり、しばらく連絡をしないこともあったが彼とはとんでもない時間を遊んだ。一応いまでも連絡を取る関係が続く。


彼とのエピソードはそれぞれ別のところで語ろう。ただ一つ言えるのは、A君がいなかったら私はお椀にご飯粒を残す汚い食べ方をしていただろう。挨拶の重要さを学ばなかったろう。感謝の”ありがとう”という言葉を知らなかっただろう。自分で使えるお金という概念を知らなかったろう。

 


ふでばこ

青いキャラものの筆箱を持っていた。デジモンだったはず。中に、鉛筆を入れて固定できる鉛筆入れがあるんだけど、ろくに機能していなかった。構造おかしくね?ゆるゆるすぎる。ランドセルの中に開発者を叩き込んでやれ。分からせろ。
おかげで、鉛筆の先端は常に潰れて挙句の果てに、ランドセルの中で激しく乱暴にされた筆箱は自らの役目を放棄していた。彼自身は自らの無力さに打ちひしがれていたろう。バキバキで真っ黒よ。

 

バトル鉛筆

ドラゴンクエストバトルえんぴつが遊びではやったことがある。
私はねだっても買ってもらえず、貸してもらうことで遊んでいた。ありがとうMK君。
いつだったか、中学生?バトルえんぴつをけっこうな本数買い1人で遊びまくった記憶がある。むなしい。

 

消しバト

これは小学5,6年の頃かな。机の上に消しゴムを各自でおいて、それを鉛筆や指ではじく。相手を場外に弾き、最後まで机に残っていたやつが勝者。そんな遊びが流行った。
柔らかい消しゴムを机に貼り付ける要塞型。でかさは正義ヘビー級王者型。攻撃力0ねりけしと消しカスの可能性型。シンプル・イズ・ベストMONO。あの遊びは男に消しゴムの買い漁らせた。だからって学校目の前に文具店に買いに行くなよ。カドケシは、ケシバトにおいてゴミだって。


僕は技術でカバーした。適切な力で弾けば十分勝てる。鉛筆だと折れるから、ボールペンだ。消しゴムを弾くための、ボールペンにもランクがあった。ばっか見てぇ。でもおもしろかった。みんなお金をかけて文具を買っていた。おれはロートル気取りで、ニューカマーをぶっ殺すことに楽しみを見出していた。無駄金乙だ。場外戦術が汚すぎる消しゴムバトルだった。ちゃぶ台返しは、報復がやばかったからだれもやらなかった。1人のやたら発育の良い巨人の専売突起になっていた。
現代に蘇ったおはじき。人狼ゲームばりの心理戦。裏切りは最初か最後に限る。

 

道具箱

これは、いつの時代だろう。思い出したキーワードを適当に羅列して内容をかくと、どうにも中身をつかめないキーワードもある。
小学1,2年生のときは、算数を学ぶのに算数箱?を各自持っていた。プラスチックのコインとか、図形とか。入っていたはず。が、そもそも教室獣であったため、机とイスの位置すら多分ろくに把握してなかったんじゃないか?流石にないか。自分の教科書置いてあるしな。机のなかみが狭いから、算数道具箱をいれるともうほかのものがろくに入らなくてうんちーと思っていた。肝心の算数道具箱の中身も、いつのまにか消滅していて、ろくなものが残ってなかった気がする。

 

赤白ぼうし

小学生では2つほどの赤白帽子を持っていた気がする。初代赤白帽子は、姉のお下がりだったかな。顎の下で固定する紐をつねに口の中にいれてしゃぶっていた記憶がある。
紐はびらびらでびろびろのぼろぼろ。まてよ。赤白帽子がない記憶もたくさんある。体育の時間は赤白帽子の着用を強制される。基本的にかぶっていなかった気がする。なくしては見つけたり、貸してもらったり。
不思議がまた1つ増えた。

 

茶髪

小学生時代は髪が茶色かった。ハーフの影響だろうか。イケメンにうまれたかった。アジア×アジアじゃなぁ。ませた女の子が髪を茶色に染めてきて、なぜ私はダメで、あの子(僕)はいいの?!!と泣いていた。知らん。小学校のルールほど意味わからないものもない。教育の場に合理と理性と理由ではなく、伝統と慣習で規則を決める。科学的じゃだめなん。


離散と家出

私が小学校に入学する前、一度ひどいケンカで家族が離散した。母が、私と姉をつれて家を出たのだ。理由は父のひどい暴力だったと聞く。
まぁ、さもありなん。父は口より手が先に出る、感情的なモンスター。真実かはしらないが、バツ2。これが三度目の結婚。おれはあったことがない腹違いの子供までいるとか。


どれも暴力が原因で別れた、と姉が言っていた。父はひどく歳をとっていて、戦前世代の生まれだ。歳が分かるだろう?俺を生産した精子は年寄りってことだ。性欲魔神でもあったらしい。彼の人生は彼のものであるため、深くは言及しない。俺の仕事じゃない。


私はひどく幼かったため、抱っこされて狭い部屋に住む場所が変わった。その程度しか覚えていない。母はひどくストレスがたまり、より不安定だったようだ。
姉が母と喧嘩になり、刃物を向けられたからガラス窓を破って逃げたんだ。そして近所の人に助けてもらった。そう言っていた。

 

人間は弱い。彼女は強がりだが、精神的に弱く脆い人間だ。重々承知している。時折許せなくなるが。弱さを悪いとは思わない。ただ姉が生きていてよかった。これを機に、母は仕事を始めた。母は夢想家で、ことあるごとにこう言う。「一家で男が家族を養うのは当たり前だ。他の主婦なんて、誰も働いていない!」と。得も知れない、不気味な理想を感じる。


母の根底のこの気持ちは残っているらしく、時折口に出す。母は仕事において、有能で在るらしいので、1人で生きていけると思うのだが、なぜそのまま別れなかったのだろう。やはり不安だったのだろうか。この家族もやはり病気である。


この離散は長くは続かなかった。父が謝ったらしい。父は世間の目をひどく気にする人間だ。見栄とプライドが高い。嫁に逃げられたと噂されることに、たえられなかったのだろう。表面上は母に謝罪をしたらしい。いや、したのか?
ただ戻ってこい、と言ったとも聞く。真実はわからないが。結局は元の木阿弥に戻った。根本の問題を無視することで。何も解決していないのだ。
両親は結局ケンカをしつづけ、お互いを攻撃し合う。私の日常の日々は特になにも変わらなかった。

 


Tさんは、両親はケンカをすると知った。

母は仕事をはじめる上で人と出会ったようだ。小学生になる前だったため、仕事中に私を会社に連れて行くこともあれば、友人の家に残しておくこともあった。Tさんという方の家においてもらうことになった。


Tさんはあまりいい人柄ではなかったらしい。Tさんは大人の女性だ。結婚もしていたはずだ。私に、家族は仲がいいか?と聞いた。私は素直に答えた。「いつも喧嘩している」と。Tさんは迎えに来た母に、そのまま伝えたようだ。この女の思考回路が理解できない。いや他の誰の思考回路も理解できへんけど。時間による経過だけじゃ、成熟した精神は生まれない。これは確実だ。1億年経とうと、精神性を養うことをしない限り未熟なままだと私は思う。母にも、このTさんにも。女性にも、男性にも。人は。


母は、Tさんの家ではにこにこしていた。彼女の外界への仮面はひどく美しい。最も、よくよく会話をしてみればその仮面のしたからあふれる言葉はひどく歪だと分かる人は分かるが。彼女の車に乗った私は、ひどくぶん殴られた。母はなんで?と言った。なんで?独白だ。


なんでという言葉はお好きだろうか。私は、この世で一番好きじゃない言葉の1つだ。なんで?ねぇなんで?自分の口から時折顔を出すこの言葉を、ひどく嫌っている。出てしまった瞬間に、首を締めて下を噛み切りたくなる。怒りにのまれると、出ることがある。


母の言う「なんで?」は理由を求めていない。理由を知りたいわけはないのだ。彼女は理由を重視しない、理由という概念を知らないのではとすら思う。
母の「なんで?」は”なんでそんな馬鹿みたいな行為をしたんだ。死ね。”ニュアンスとしてこんな感じ。疑問ではなく、責めるため、攻撃のための言葉だ。

 

人はだれもが自分独特の意味を言葉に見出す。普段間違えて使ったがゆえに、使われたがゆえに間違った奇妙なニュアンスを学習してしまう。環境って大事よね。


彼女の怒りに対して、子供の私は常に無力だった。泣き、ただ謝罪の言葉を口に出す。もうしません、ごめんなさい。母のそれは叱るでも、諭しでもなかった。怒る理由は彼女を気分を害したから。それが全て。私がどう悪いのか。そんな説明はない。要求だけがある。仕打ちを受ける。罰だと言う。

 

彼女の気分の雨が降り止むまで、彼女は気分赴くまま、感情のままに幼いわたしを挫いた。肉体的に、精神的に。自然への脅威のようで、嵐であり、火事であり。地獄であった。その日はごはん抜きだった。”教育”だ。免罪符であるかのように言っていた。

 

愚かだよね。最も他人に相談しても、子供の言うことなんざろくに聞きやしない。この頃のわたしは、常に無力感を感じていたろう。相談者は母と父に私の相談内容を伝える。なんで伝えるんだろうな?冷静な会話が、彼らを変化できると信じ切っているのだ。愛でたい頭だこと。幸せで、周囲を信用できる素晴らしい環境に身を置いているのでしょうね。あいにく、我が家はモルドバ。信用と協力が失われた国なのだ。

 

カウンセラーも教会の牧師も無力であった。母も父も、何一つ変わらなかった。母も父も、大人特有の力で、脅し、脅迫し、屈服させ、暴力をすることを自然だと、この狭い家族という世界における絶対のルールだと心の底から信じていたのだから。戦争に勝つのは、暴力だ。ゲリラ戦による嫌がらせ。精神攻撃は基本だろう?

 


父はキリスト教

父に最もユーモアを感じる瞬間だ。犯罪者が免罪符を買う、ルターはこんな気分で彼らを眺めてたろうか。とにかく滑稽だ。聖書を口遊、お布施をする。なんのために?自らの行動において、示されない限りそれは振りでしかない。


周りに自らの誠実性を見せつけてでもいるのだろうか?本性を隠して?だが、そんなクズみたいな父でも、いつかは死ぬ。死を憐れだと思うだろうか。可愛そうだろうか。私もなんでも、両親に向かって死ね。と口癖のように言っていた時代が在る。


彼らもいつかは消えてしまう。私は泣くだろうか。涙が出るだろうか。もっと親孝行しとけばと思うだろうか。悲観主義者の予測はひどく当たる。楽観主義者よりも。統計的な事実だ。私は、何も感じないと予測する。あぁ、死んだか。そう思うだけで終わる。1つの時代の区切りにも感じるかも知れない。それでも、ふとした同情は湧くだろう。誰もが死ぬのなら、彼らなりに多少の満足を持って死んでいけと願う。死が避けられないのなら。


私は死にとらわれている。死を厭み恐怖している。
私が死んだあと、世界は続いていく。そしてそこに私の自我は永遠に存在しないことにひどく恐怖を覚えることがある。死を考えると、ひどく虚しい。全てが無駄だ、そう結論づけてしまう自分もいる。自分には複数の自分がいる。ひきこもりっている間は常にそんなことを考えていた。


なんで

Why。理由を聞くために使え。相手の行動を責めるために使うな。行動とかそのときの判断だ。間違っていると思っていても、行動は示される。正しいと思っていても、行動が示されない時もある。


三者が客観的に、その人の罪を指摘し、正しさを強要することはひどくおぞましい。気持ち悪い。だれもが終わった過去に大して、他人に対して、言葉を無責任にかけられる。そして、そんな大層な言葉をはいた人間が自ら過ちを犯す。


人の振り見て我が振り直せ?「罪のない者だけが石を投げよ」何千年前の言葉だ?
俺も、あいつも、みんな、猿ばかりだ。人は完全じゃない、完璧じゃない。間違いを犯す。判断を違える。勝手に変える。正しさを思い込む。悪いと排斥する。良い悪いもないときもある。前提に受容と許しがいる。歴史は繰り返し続けてるが。学校で学ばせろ。この世のいくつかの原則を。主観を排除した、事実がいくつかあるだろう。体験知でしか分からないのか?なら体験知を組み込めばいいだろう。


なんたって人は忘れるのだ。自動的に受動的に。忘れることは楽だ。必要なことを思い出すことは、なれるまで主体的に意識的に行わなければならない。頭の中で、無数に繰り返すことでいつしか自然と自分の理念になる。
人はめんどくさがりで、楽をする。それだけの話だ。


しゃけの皮とかぼちゃ

しゃけの皮の食感が嫌いだった。今でこそ、食べられはするが柔らかいぐにゃぐにゃした食感は好みではない。パリパリ、いやバリバリになるまで乾燥した皮は喜んで食べる。
かぼちゃの皮も、苦味を感じ水分をとられ食べづらかった。食べるまで寝られないなら、食べるしかないわな。拷問である。

 

 

では、またあした。小学校はひどく長い。その上あくまで過去だ。