「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」

目次

 

序論

外向きの思考


自分の精神は安定しているだろうか?
安定している人はそのままでいい。ありのままのあなたでいてほしい。
不安定だよ。そう現在進行系で感じている人あろう。俺もその一人だ。たった今2019年12月05日はなかなか悪くない。比較的に強固だ。明日は知らない。

ぼくの過去を振り返ってみると、精神の不安定な時期を乗り越え、安定した精神へとよりかかれる時期も少なくない回数あったと思う。

勉強や目の前のことに熱心に取り組むことができる時期。かつて僕は英語を学んでいた。プログラミングのスクールに行った。独学でpythonを学び、企業でプログラマーとして働いたこともあった。
どの1つも例外はなく、はじめた瞬間は熱中して、目標と計画を立てて頑張ろうと思っていた自分がいたことを覚えている。
その熱心な自分は強固で持続可能で今の自分なら大丈夫だ。そう思って、ずっと続くと信じていたことも間違いない。

 

 

ひきこもりの思考

 

今行ったことと全く矛盾せず、ぼくはそとに全く外出せず、実家にひきこもり、ひがなゲームや本や小説やネットサーフィンで時間をつぶす日々がある。断続的だが、合計で4年以上の時間はあろう。


そのときの気分や精神状態は間違いなく最悪だろう。惨めに打ちのめされた気分。見捨てられた気分。誰かに救ってもらいたいと願っていて。どうして自分は普通じゃないだろうと思う。

 

やればできるんだと信じたい自分。他人と自分を比較せず、昔の自分とこれからの自分を比較するんだとまるで現状にそぐわない鼓舞をする自分。
親に養う義務はない、お前自ら独立する必要があると叱られる自分。それに正論かもなぁと思いつつ、癇癪を起こし部屋に引きこもる自分。
自分を正当化する自分。周りを都合よくコントロールする自分。分厚いハードカバーを作れそうなくらいいろんな自分がいる。3日前までの自分で、今の自分だ。

 

ここ2日3日は少しだけ安定した自分だ。なぜ安定したのかいくつか考えられるが、一過性かもしれない。薬のおかげかも知れない。明日にはうずくまり蝉の抜け殻が如く停止するかもしれない。
この出だしは今回のテーマというか言葉に関係がある。過去、今、未来への自分に残しておこうと思った言葉だ。常に不安と恐怖を抱え、立ち止まっていること。それに対しての言葉だ。

「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」

 

 

本論

自分、ふしぎ発見


さて、どのようにしてこの言葉に出会ったか。僕の好きな自分語りをしながら辿っていこうじゃないか。気分は世界、ふしぎ、発見!。

 

始まりは冒頭で対比した2人の自分から始まる。
一人は自信と大丈夫、行動力に溢れた安定した自分。
一人はひきこもりで動かず救いを求める不安定な自分。

 

2人の自分はいつ、どうやって表面にでてくるんだろう?どう違うんだろう?どうすれば安定したいい自分を維持できるんだろう?そう考え始めた。
この自問自答が自分の中で何回なされたかは知らない。少なくとも最初の1回ではないな。

 

ひきこもりの日々はひたすらに曖昧だ。もやもやしていて、言葉に表現しがたい。いらいらして、ぼーっとして、周囲に少し反応して、いつのまにか時間だけが過ぎていく。
自分がラジコンで、何かよくわからない別人にコントロールされている気分かも。それをただ眺める。自分の体なのに自分じゃ上手く動かせない。もういいや、ゆだねよう。そんな日々。

 

きっかけはいつでも突然に。やたら長く重要ではない過去回想

Xデーの僕もいつも通りだったろう。答えのでない不安と恐怖と惨めさを呪う。いつもどおり思考を空回り。ぐるぐる自問自答。紙に何かメモしようしてペンを持つだけ。本を読もうとしては白い余白を眺めていた。
ただ好きな本も読めない。それはちょっと困る。数少ない趣味を失いたくなかったのだろうか?とつとつと精神病院に行ってみようふと浮かんだ。

 

精神病院。精神科。初めてではない。過去に2回行ったことがある。地元で1つ、神田で1つ。どちらもどんな診療内容だったか。終わったあと、医者にこいつらは俺を理解できない。病気や障害や精神病かの判定もできない。役立たずのゴミだ。敵だ。そんなことを思ってたのは間違いない。行った理由も自発的じゃなかった、他人からの勧めで心はそこにあったか定かじゃない。

 

今回は自分で電話をかけた。私は現代人だ。現代人に必要な要素はインターネットに接続できる機器を持っているかだろう?もちろん3年前からスマホを持っている。しかし電話はかけられない。現代人は電話を忌避する。電話番号はあるが、SMSしか使えないって契約だ。安かったんだ。


普段はまったく使わないから困らない。でも必要になった。困るよ。仕方ないから家の電話を使うしかない。
思ったのは、親に自分の声を聞かれたくないってこと。どんな内容で電話をして、どこに電話をかけるのか聞かれたくないと心の底から思っていた。
だが、今回は運が良かったのかもしれない。心のダイスがクリティカルしたか。しぶしぶか。確かにかけたのだ。だけどその日はあいにく祝日。なんだかなー。


次の日。月曜日。改めて電話をかけてつながったのはある種の奇跡だったろう。電話をかけるという行動をとった自分を抱きしめてやろう。

 

病院の受付の女性が電話に応答した。いくつか質問をされた。どんな症状で困っているの?と。本が読めずに困っている。なにかしようとしても動けないことに困っている。なんとかしたい。くたびれた声で伝えた。電話なんてしないで、さっさと病院に行けばいいだろう?記憶を忘れてるであろう未来の僕はそう言うかも知れない。そこは初診には予約が必要なんだよ。そもそも動けねぇって言ってんだろ。

 

だから、予約するためだけに電話をかけたし、質問なんてあることも知らなかった。めんどくさいなぁ。ながーい体感時間過ぎた。あらかた質問が終わった後、とんでもないことに受付の女性は、明日また予約が取れる日を伝えると返してきた。なんてこった。予約する日は俺には選べないらしい。

 

 

過去回想はこうやって無限に増えていく


物事を詳細に話しすぎるときりがないな。さくっと色々省略しよう。これでも朝ごはんとか、うんこのでとか端折ってるのに。ひとり語りが好きすぎる。前世は詩人かも知れない。プルダウン式に格納できないかな?


次の日朝はやくに電話がかかってきた。父が応答した。朝に起きているはずがない。不規則で昼夜逆転の俺は叩き起こされ、受話器をなんとか持つ。予約日だけを伝えてきた。ねぇ、それおれ起こす意味あった?

 

予約当日。病院には駅の近くから送迎バスがでている。実家から徒歩ではクソ遠いから割と嬉しかった。初めて送迎バスに乗る不安感を抱えながら、徒歩で駅まで歩く。特に何も怒らず、風景を見ながら大体15分もゆらゆら揺られて病院へ。予約したにも関わらず1時間はまたされたことは、どうなってんねんと。予約ってなんだよ。


医師と会釈してごちゃごちゃと話をする。声少なげに自分のことを聞かれるままに語った。精神科の医者にはどうにもこうにも落ち着かぬ。それとも自分自身がどの医者に対しても不信感を持ってるだけか。ADHDのアンケートにも答えた。精神科の相談時間は1時間程度と決まってるみたいだ。超えると高い金を取られる。はぁ、金ねぇよ。精神病患者は話したがりだから対策なんだろうな。

 

相談が終わっても、明確に精神病やら障害やらは言われなかった。3種類の薬をもらった。間違いなく良くなりますよとやたら繰り返していた。薬の説明くらいしろ。もっと別に言うことあるだろ。コイツ信用できねぇ。なんだこいつ。やる気あんのか?モンスタークレーマーはこうやって生まれるのかも知れない。


薬の内訳は、ADHDのアトモキセチン。睡眠薬2種。睡眠薬昼夜逆転を直せって意味だろう。くそだなーもう行かないかもとも思った。アトモキセチンがADHDの薬なのは自分でぐぐって知った。そうかADHDか。そういいつつ、ぼんやりした頭で病院から帰る。その日睡眠薬は使わなかった。寝ることは苦痛じゃない。朝行って、やたら待たされて送迎バスの時間も1時間おき。合計7時間位拘束されたのか?そりゃ疲れるだろうさ。寝かせろって気分。

 

後5分で日付が変わるの半分を編集が終わってない。ここは飛ばしても良い。

あいにくこんな長々と話した病院編は大して重要じゃないんだ。俺がキーワードに設定した言葉へは遥かに遠い。あれ、こんな果てしない旅なの?こんなに自分語りできる人種だとは思わなかった。いや文字だからか。


口数は間違いなく少ないし、人の話をろくに聞かないから相手に返答せず黙ってるようなタイプだ。人の話はぜんぜん聞かないけど、俺の話は聞いてくれとも言う。俺には興味を持ってくれ。わがままだね。


自分が誰かに興味を持って、話を聞く素振りをしない。他人も似たようなもんかもな。昔はよく見た自己啓発書やハウツー本、コミュニケーションの本にもよく書いてある。相手の話をよく聞くタイプが好かれるコツですよ。あほ。もういい。人に嫌われるんだったらそうなんでしょう。それでも自分で何かを語れて、話せるってことに俺は感動してるんだ。

 

ただ、音楽はソロより、オーケストラとかいろんな音がミックスされたほうが好きだ。様々な音楽に切り替わるメドレーも特に好きだ。不思議なことに。同じ一曲を最後まで聞くことはよほど気に入らない限りしないな。気に入ったんなら、ずっとループさせるけど。もはや心音みたいになる。

 

 

本題一歩手前

ADHDの連想ゲーム

次に繋がる言葉はADHDだ。ADHDの薬から、なんか最近どっかでADHDとかの話を読んだなぁと思い出した。

 

”Barking up the wrong tree”そんな題名の本がある。2ヶ月以上かけて30ページも読めてない。内容が難しいかと言われるとそんなわけでもない。むしろわかりやすく噛み砕いてくれる親切な本だ。日本語訳もある。原文は英語。俺は原文である英語版で読み進めようなぜか決まっていた。なんでや。ただ、共感できなくはない。自分に共感するってのも当たり前かも。今日の自分に日本語訳と原文どっちを読むか?そう聞かれたら、10回に2回はは原文で読むと答える。理由は多分タイトルがかっこいいからとかそんなだろう。あぁ、あと日本語訳では内容のいくつかがカットされてるって翻訳者が言っていたからだ。全部翻訳しろ。

 

今はこの”Barking up the wrong tree”の中身には言及しない、解説もしない。一応30ページも読んでない俺でもおすすめはする。物事への理由や根拠が好きなら読んでみると良い。大事なのはこの本のとある章では、偉人には精神障害者が多く存在すること。そしてとある4つの偉人の共通点について話題に上げる。その4人の偉人は、ミケランジェロエイブラハム・リンカーンマーク・トウェイン。マハトマ・ガンディー。小学生の歴史の教科書にすら載ってる4人だ。共通点はなんだと思う?歴史上に名を残した?然り。

 

ただ本がとりわけ焦点をあてたのは、彼らが幼いころに両親を失っていることについてだ。この話だけでもまた長い文字を埋めることができそうだが、この共通点もあいにく今回の話にはあまりに関係がないんだ。じゃあ、なぜ出したんだよ…。思い出したからさ。

 

流れをまとめよう。

一旦流れをまとめよう。
精神に効く薬をもらった。調べたらADHDの薬だった。歴史上の偉人は精神障害を持ってるやつが多かったことを思い出した。たまたま同じ本が言及していた4人の偉人を連想で思い出した。

 

俺は次にgoogleで「偉人 ADHD」とか打ち込んで何かを知ろうとした。偉人のことを知れば、ひきこもりや精神も安定するだろうとかだろう。何度も通った道だ。google統計の大部分を占めるように、俺は一番上のページを開いた。

 

「感性で波乗り」。不思議な名前だ。悪くない。人生における初めてなんてそんな感じで過ぎ去っていく。情緒もくそもない。googleの言う通り開いたページはADHDの可能性がある偉人がばーっと列挙していた。ほとんど目もくれなかった、ページのデザインがよかったからだ。おれは自然とサイトをぶらつき始めた。


全体のデザインは、深海ほどは濃くない青色と、大部分を白の背景で構成されている。シンプルながらキレイだ。海と空の色。作者はADHDを患っていたようで、プロフィール欄を読むと現在はほとんどおさまっているようだ。ぶらぶらして、見つけた一つのページにこころが深く傷ついた。内蔵を揺さぶる良いパンチだ。


ページはこれ。
 https://intome.jp/you-can-change-it-if-you-only-have-this/ 

要約すると、自分はこうあるべきだ、こうすればよくなる、何かが足りていない。これらは自分に足りていないものを、外部から補おうすることでは意味が薄いと。そんな話。


そして作者は自分の自我や自発性が芽生えれば良くなるとおっしゃっている。
つまり俺には自我が存在しない。あるいはバブルスライムのようにどろどろに自我がとろけているのだろうか。心をえぐられた。でも、Daigoのブログやサプリや運動や本を読めば解決する!!!これと同じような思い込みをしたことがある。この指摘が一番深く刺さったな。


ならば自我の形成について示唆を含む教えを得られないだろうか?そう思うのも無理からぬ事だろう。弱い自分はいつでも蜘蛛の糸を探しているのだ。
下部の関連ページから横断していく。自我を持たない人が自我を得る方法でも紹介しているのかと思えば特にそんなことはない。作者自信が前提を省略したなにかの概念を、”自我”と読んでいるのだろうか。


肝心な情報への物足りなさばかりを思ってしまう。おれは素直で悪辣なのだ。細かくの目を引く言葉はあるものの、最終的にこの作者への興味はあまり強くならなかった。


しかし、いくつか気になるワードはある。ADHDが治っただの。自我。森田療法森田療法?どうやらこの作者の方は、森田療法を実践して治ったとおっしゃっておられる。
ほほぉーん?斜に構える性格が顔だす。さぞや素晴らしい療法なんでしょう。で、もちろん作者さま。解説と紹介をなさっておりますよね?と思いつつ探しても、ろくな解説はなかった。なんでやねん。いちばん大事なものやろ。


ひどくがっかりして、勝手に失望した記憶がある。2,3日も立ってないから流石に覚えている。森田療法の本のamazonリンクを貼るくらいなら、中身についても多少は言及しろよと思った。

 

 

 

本題;「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」

森田療法



「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」
そして俺はこの言葉と出会う。
以下は森田療法を解説してるページの1つだ。
http://www.mental-health.org/morita.html#moritatowa

 

要約やまとめが存在しないなら、自分で解説すればいい。こんなことを思えるだけでも、ADHDの薬はたしかなようだ。5日目くらいだ。逆に麻薬みたいで怖さを感じる。

 

上のURLを開くとやたら文が詰まってるページがでてくる。もっとも開けなんて言わん。よくあとは個人でどうぞ~、ご自由に~ってスタンスでめんどくさがって投げてくるやつがいる。親切の鉄球投げ。それに比べてなんと丁寧なことか。

 

森田療法の全体のイメージ

森田療法の全体のイメージをさくっと伝える。
森田療法とは、すなわち仏教的な思想を精神病に対し具体的に当てはめ対処する。俺はそう受け止めた。


ブッダ。仏教の創始者ブッダは、人は迷いを必ず持つものだとか。あらゆるものを受け入れ、諦めよとか。人は欲望を持つものだとか。色々言っている。もちろん俺は詳しくない。ブッタの教えは精神の安定剤になるんじゃないかと触りだけソフトタッチしたことがあるくらいだ。

 

だから俺は第一印象で仏教と線をつなげた。仏教を知ってなくちゃならないわけじゃない。各々が自らイメージしやすく、線として自分の中の何かと繋げられるものがあるといいなと思う。

 

 

俺が翻訳した森田療法

森田療法を俺翻訳で噛み砕いていこう。
100年くらい前。森田さんは精神病の根本的な原因はなんだろう。薬だけじゃなくて、もっと精神の根っこの部分から原因を根治するにはどうすればいいだろう。そう考えた。


まず、精神病とはなんだろうと彼は考え始めた。強迫観念、なにかをしなければならないという考え。不安症状、何かを不安に思うこと。パニック障害、混乱してしまい何も手につかないこと。対人恐怖、人と会うことや会話することが怖い。森田さんは、これらの背後にはなにが存在するのだろうかと考えた。

 

神経質。森田さんは”神経質”こそこれらの原因と考えた。普段から使うような言葉ではないが、使ったことや聞いたことはあるだろう。


神経質をもっと分かりやすくしよう。敏感、細かく色んなものに反応してしまう。完璧主義、あらゆるものに完全を求める。内向的、自分以外と交流するのを恐れている。自己内省的、全て自分のせいにして自分を責めてしまう。心配性、何をするにも不安で失敗したらどうしようどう思われているだろうかと恐怖すること。これら様々な人の心や動きに関わる性質をまとめて、神経質と呼ぶ。

 

森田さんは、人間が精神病にかかるには、精神病の症状に苦しむにはこの神経質な性質が2つの作用をすると見つけ出した。


1つ目は、自分が気にしていること、注意している不安や恐怖や欠点などに集中しすぎて、それしか目に入らなくなってしまう。結果、脳はそればかりを気にするようになり、不安や恐怖や欠点が大きく多く膨らんで言ってしまうように思うこと。


2つ目は、自分が現実にできないこと、不可能なことを、無理矢理にでも行うとする葛藤。しなければならない、こうあるべきだ。そんな思考で頭の中が埋まってしまう。頭の中と、現実との差異に打ちのめされてしまうこと。


森田さんは、この2つのことを、「とらわれ」と説明した。仏教にも、執着という苦しみ。苦しみに囚われる。そういう考えがある。

 

 

とらわれ

 

「とらわれ」
とらわれ。言い換えるなら、頭の中が不安や恐怖に埋め尽くされてしまうこと。それしか考えられなくなってしまう状態。
森田さんはこう続ける。人の不安や恐怖は消すことができない。なぜなら、不安と恐怖とは人の持つ正方向の欲望と表裏一体の存在だからだ。


そして、
「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」

やっとこの言葉に帰ってこれた。
欲望とはなんだろう?人にかっこいいと思われたい。美しく見られたい。人に頭がいいと思われたい。失敗したくない。まさしく欲、自分が欲するもの。自分が求めるもの。
人にかっこいいや美しいと思われたい。そう欲を持つことは人として自然なことだ。同時に、人にかっこよく思われたい、キレイになりたいの思いには裏がある。人にかっこ悪いと思われたくない不安。キレイじゃないから彼氏彼女ができない不安や恐怖。負の思考が同時に存在する。欲、それには表も裏もある。森田さんはこう述べる。

 

じゃあ欲望を捨てなきゃ不安や恐怖を消すことができないの?!こんな質問に対してはこう翻訳しよう。人には欲望がある。欲望の裏には不安と恐怖がある。切っても切り離すことはできない。


在ると認めよ。不安と恐怖だけを自分から切り離すことができない。不安と恐怖が負の方向の欲なれば、あなたの中に正方向の欲望も存在することにほかならない証明でもある。
不安と恐怖を認め、欲望を確認し、生命への渇望を知る。自分の欲のために、目の前にある自分の行動を見つけ、それを為すことが本質的な根治である。
これを常に行えるようになることが、根本的な悟りだと彼は説いた。
これが森田療法を骨子であり、本質の説明だとおれはそう解釈した。

 

 

本質への肉付け。細かいところ

12の心構え
http://www.mental-health.org/morita5_a.html#1

少しだけ自分の言葉を交えながら、森田療法をもう少しだけ再度掘り下げよう。
上記を自分なりに解釈し、翻訳したものだ。


大きな大前提は、
「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」
不安と欲望は表裏一体である。
不安とは発展したい、成長したい、変化したいという欲から生まれる。
ゆえに不安を排除することはできない。なぜなら人は欲望を排除することができないからだ。
ならば、人は人として、あるがままにそれを受け入れる。
感情や欲や不安。これらは人であるがゆえに生まれ、起こることを人はコントロールすることはできない。

 

神経質。その気質は、自らの欲と不安が切り離せなことを知らないがゆえだ。
欲を見失い、不安と恐怖だけが心と頭を支配する。
本来欲のために、どうしてそれをしたかったのか忘れてしまった状態。
やがて不安と恐怖を消すことがだけが目的になってしまう。
自らの目的を見つめよ。今の自分の目的は、ただの手段かもしれない。
不安と恐怖は消すことは目的ではないのだ。

 

恐怖突入。自らの恐怖と不安に向かって、突撃をせよ。
自らのとらわれを認識せよ。
すべてが不安と恐怖に支配されても、正の欲望は消えたわけではないのだ。
一旦立ち止まってもよい。自らの不安と恐怖を眺めよ、受け入れよ。そして行動をせよ。動きはじめよ。

 

神経質は、物質的な頭や体の変質ではなく。
不安や恐怖への葛藤や集約による囚われに由来することを自覚せよ。

 

行動したからと言って不安や恐怖は突然に消えるわけではない。
はらはらどきどき、びくびくしながらも、苦しいままに為すことをなせ。
あえて苦しみを強いるのだ。

 

手足や体を動かせ。思考に囚われることは内向的である。
気分が悪く、感情がままならなくても行え。
愚痴を言うな。仕事に行きたくないからと病気に逃げるな。
仕事や勉強は遊びと違って辛いの普通である。辛い中に真の喜びが生まれる。  ここはちょっと賛否

 

神経質の人は欲が深く、仕事に当然伴う辛さを感じず働きたいと願う。
また、最も良い状態の時を基準にして、いつでもそうありたいと考える。
これは完全欲で完全主義だ。実際の現実はいつも不安定で不完全。諸行無常だ。常に絶えず変化してとどまらない。

 

自信とは、自信なしで何かを為すことで生まれる。
自信ができたからやるわけではない。
やつかやるまいでは自信なしでやるがいい。
いつまでも準備することは完全欲にとらわれている。

 

仏教の極地は、煩悩を消し、欲を消し、安らかな心をえること。これすなわち悟りなり。
煩悩とは、見栄、疑い、誤った見方、プライド、誇りなどであり。欲を失うこともある種違う話になってしまう。
個人的意見を述べさせてもらうと、極地的な悟りは、人造的機械化のようなものだろうよ。
煩悩と欲望は表裏一体で、人間から感情を捨て去る悟りとは少し方向が違う。
だからおれは森田療法が完全に仏教それ自体とは言わなかった。

 

快も不快も未練も時間とともに自然と薄れていく。
忘れようとすればするほど、囚われ意識する。
長く残り自然に逆らうことになる。
解決しようとせず、放置すればいい。


長々と掘り下げたものだ。というか書きすぎだろ。編集作業めんどくさすぎる。
精神病や精神障害の人をまるで全否定するのが森田療法といえなくもない。
俺は根本的に全面賛成はしない。口癖のようなものなのだが、これはあくまで1つの考え方にすぎない。別の手法別の考え方など無数にある。納得できないなら、それらを探しにいけばいい。

だから俺は部分的には賛成。部分的に反対。

 

何度も繰り返したように
「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」
この言葉に出会えたことは大きな収穫と言える。

 

 

あとがき

 

精神の病や障害にはたくさんの種類がある。森田氏は現代の人間ではなく、過去の人物だ。100年前の人物。骨董品だよ。現代医療が発展し、科学が発展し、医学的に障害や精神病が定義されている。その全てに対応できるものだとは思わない。

 

それに療法だと銘打っているが、精神修行や精神鍛錬だろうこれは。修行のほうがよっぽどしっくりくる。

気に入ったものを聞き。触れればいいと思う。俺もそうする。

 

すでに言った記憶があるが、俺は人の話をあまり聞かない。聞けない?だいたいのものは退屈だなぁと思いながら聞いている。メールだって文章だって、気づけば自分のことばかり考えている。


内弁慶で内向的な性格だと思いきや、文章であるなら攻撃的で苛烈で長々と話し続ける。別にそのすべてを聞いてもらいたわけじゃない。
この文章を書いて、たしかに誰かに向けて読んでもらいたい。そう思うから公開しているわけだが、それは俺の欲なわけだ。立ち去って、別の人の話を聞くのもまたいい。
これで大体今日言いたいことは書いた。編集作業がめんどくさそうだなぁ。誤字脱字が不安と恐怖で、うまくいってるといいなぁって願望が欲か。


人に興味をもってもらうことは、まっこと難しい。でもいつかは、ちびまる子ちゃんやのびた、黒柳徹子みたいなポジションになれたらおいしい。楽しそうだって純粋に思う。

 


最後に


「不安と恐怖は、自分の中の欲と表裏一体の存在である。それは切り離すことはできない。」


しっくりくる言葉に出会うってのはなかなか良いもんだ。また未来の自分が、退廃的で厭世する日がまた来るんだとしても。まぁ、その時の自分がまたなんとかしてくれることを祈ろう。


真理を悟った気がして、何かを理解した気がして、次の日には一体どういう意味なんだ…?どう解釈すればいいんだ…?なんて振り出しに何度も戻ったことがあるからわかる。自分にはある種の諦観がある。それでいい。今は受け入れよう。いつかの問題はまたいつかだ。頑張って死ぬまで生きてほしい。

 

 

1分の差で継続期間きれたのすげぇはぁ、ショックだ。いっそ気負いがなくなってよかったのか?

 

 

 

書いた時間;2時間15分45秒以上

編集時間;2時間以上