今日の気分

30分のエッセイ

ほどほどにわからされている。僕にとって、なにかを始めること。取り掛かることはとってもハードなことの一つだ。
作文用紙とペンと渡されて、原稿を産めよ。まだやりやすい。
自分で決めて、自分で準備して、自分で取り組む。これが難しい。これを続けることも、個人的前人未到の極地。空前絶後な感じ。

 

二人の自分がいる。衝動的で活発、創造的な自分。冷徹で否定提起な、停滞的な自分。二人の自分は相反していて、活発な自分が出した案を、冷徹な自分で実行しようとすると上手く行かない。


とはいっても、常に完璧な気分と雰囲気にどうやっていられよう?ここで私が為すべきは、おそらく2人の自分の役割分担なのだ。それぞれ何ができるか知ることが、自分なりの調整になる。

 

可処分時間

世界にたくさんの人がいる。言葉で理解する以上に、世界は人に溢れている。気になる人を知ったからと、調べ始めると。また別の人がたけのこのように出てくる。
きりがない。諦める必要がある。これ以上知ると、時間がなくなってしまう。知ることが得するだけでなく、自分に害になってしまう時代になった。死を意識したとき、自分が消滅するまでの時間は計算できてしまう。


ソーシャルゲームでプレイヤーの奪い合いではない。可処分時間の奪い合いと表現される。可処分所得ではなく、時間。
時間がお金の価値を超えた時代らしい。10~20歳代の若者に、ウォーレン・バフェットの資産と、自分の残りの時間全て交換したいか?そう聞いたらどうなるだろう。
体験してみたい。


人は時間が限られている。その中で、自分の時間を使いたい魅力的な人に捧げる人もいる。モノだったり、あらゆるものが対象になる。
自分が最も魅力的に感じるなら、自分に捧げ。自分にとって、捧げたい人を見つけたなら捧げる。現代はまるで宗教の供物文化みたいだ。

自分が宗主になるか、信者になるか。宗主になったらなったで、宗教同士の交流が始まる。信者のたぐいによって、好き勝手暴れ始め、戦争になる。


そんなことが自分の知らないところで常に起こっている。自分は知らないところで知らない何かが起こっていることに気づかない。
たまにニュースになったり、偶然知ったりする。それでも世の中のほとんどは、自分の世界とほとんど関係ない。
だれもが狭い世界を生きていて、狭い世界中に新しい発見をする。大きな世界、大局的な世界。そうは言っても、だれしもが神にはなれない。

 

最初の1粒のチリ

努力とは、誰かに自分を認めさせる積み重ねの作業のことを指すと、思っていた自分がいる。
常に何かに飢えるように、認められたいと振り回されていた。目の前のことをするために、遠回りをしていた。女の子にモテたいからダンクをできるようになる。なんか中学生っぽくていいよね。
実際に女の子と仲良くなりたいなら、自分の前の席にいる女の子に話しかけるべきなのだ。逃げるとは、自然と生活の一部にある。手段と目的は、簡単に逆転する。

 

今でも、自分の目の前にあることが手段なのか、目的なのかはわからない。自分の一番好きなモノを断言できるような、闊達さは持っていない。灯台下暗しじゃないことを祈る。石橋なんて叩かないほうがいい時代になってしまった。


完璧主義のくせに辛抱強くない精神は、準備だけで疲れてしまう。身の回りのもの目をむけず、遠くにある高い高い釣り竿を用意することに精一杯になってしまう。工夫ができない人間なのか。工夫を知らないのか。


始めることが、難しい自分だ。始めないほうが楽なのだ。でも、何もしないということも同時に苦痛になる。それを重々承知している。これは経験によるものだ。
とんでもなく長い時間何もしない期間を暮らした。やっと気づいて、恐れおののいた。何者にもなろうとしない、なにもしない、それもまた辛いのだ。

 

世の中楽しいことだけが表に出ているわけじゃない。自分の感じない苦痛は、苦痛として認識できないだけだ。朝のニュースに誰かが死んだと報道されても、自分の苦痛ではない。


不思議な世だ。だれもが楽しいことを求める中、苦痛も本来溢れている。でも、他人の楽しいには反応できるのに。他人の苦痛には痒みすら感じない。白状な自分がいる。
どこかの世界はつねに滅んでいて、自分もいつか滅ぶ。気にしないで良いのだ。多分。