回想録2 引っ越しと幼稚園

引っ越しを

引っ越しをするそうだ。
もともと団地に住んでいるころに、どこか保育園か幼稚園に行った記憶はない。
ただ、姉は団地時代に小学校に通っていた気がするから、3歳差のわたしもどこかに行っていてもおかしくはない。

 

引っ越しをした先は一軒家であった。近くに電車の線路が通るからと、父がガラスの窓を二重にするよう交渉していた。
おかげなのか、外部の音は比較的静かな家になったようだ。
庭には芝生があった。それの芝生を掘り返して、庭に穴をほったらひどく怒られた気がする。

 

飾り

母は庭に、どこかからかってきた白い石膏?素材のテーブルとイスを置いた。テーブルとイスはレースのような所々彫刻されたようなスキマが空いていた。母は西洋のへのあこがれが強いのか、やたら天使の絵やら貴婦人の絵を家に飾った。
今も家に残っている絵がいくつかある。高くない安物だろう。他にもティーカップを一時期やたら買っていたようだが、多分私に物心が付く前にはあったから、随分古い頃の趣味だったのだろう。

 

部屋

家に引っ越した日はよく覚えていない。私の姉は2階の同じ部屋に割り当てられた。二人分の学習机を1つの部屋に置くのだから、それはもう手狭であったろう。2階には部屋がトイレを除き3つある。いや幼児のときに私は部屋を持っていなかったかも知れない。
1つの部屋は父のもの。1つは母のもの。1つは姉弟のものになった。もっとも子供達はプライバシーなんて言葉を知らなかったし、彼らの辞書にも存在しなかったため隠し事なんてものもできなかった。ノックもされず、全てがフリールームであるかのように振る舞う集団であった。

 

寝る場所

寝るときは、私と姉は母の寝室にあるクイーンサイズのベッドに寝ていた。子どもたちが寝たあとを計らって、父と母は子供を横においたまま性交にたびたび及んでいたようだ。私は理性を得た肉体的に大人になってから、姉にその話を聞かされた。別に知りたくなかった。子供のわたしはひどく無知で、一度寝たらまったく起きない子供であった。というか今も寝たらまずよほどのことがないと起きない。思い出して見るなら、父は普段1階の自分の和室で寝ていた。それがパンツ一丁で、朝自分の横に横たわっているのだから。まぁ、間違いなくそういうことなのだろう。おぇ。なんでこんなことを振り返らなくちゃならないのだ。生物学的に子供がいるんだから、そらやることやってるのは当たり前でしょうよ。

 

感謝へと至る道は

ぶっちゃけると、親から生を授かり、この世に育ててもらってもまったく感謝の念を示せない。社会的に育ててもらったのだから、感謝をしろ。そんな言葉が平然とまかり通っているが、どうやらその面でも異端と言えるらしい。他人の言葉は彼らがそこ至って、自分に言い聞かせている言葉に過ぎないと基本的に考えている。それを他人にお前もいつか分かる。そんな言葉を吐くだけ、どうにも気に入らない。話がついそれる。私は両親のことをひどく苦手としている。どうにも合わない。というかトラウマなのだ。それでもそんな彼らの環境に今も自分をおいているのだから、愚かとしか言いようがないが。彼らは私が精通する前、セックスという概念を知るまえにはセックスレスになっていたと思う。私の主観上では。

 

幼稚園

随分寄り道をしたが、引っ越しがあったのは私の年齢が小学生一年生になる1年か2年前のはずだ。そして、幼稚園で1,2年を過ごしたはずだから、年齢は4か5歳程度であろう。家から車で5分ほどの幼稚園に私は通っていた。最も毎日車で送り迎えされていたらから通わされていたとも言える。幼稚園での記憶は、とある先生の記憶。スケートボードの記憶。くらいだろうか。小学生で入り浸るとある友人とも、出会っているはずなのだろうが。まったく記憶にない。

 

 エピソード

とある先生。

美人、だったのだろうか?若い女性だったはずだ。20代~30代にも見える。私は幼少期とりわけチビであったわけで、周りの大人ひどくでかく思っていたのは確かだ。


スケートボード

幼稚園は遊ぶどころであろう。おそらく授業参観?のような親が子供を見学する日があった。父だったろうか?母だったろうか?彼らがいたきがする。私はスケートボードにのっているところをカメラに撮られていた。
ふと思い出したが、女の子がいたきがする。わたしがスケートボードにの乗れないのを、教えてくれたのか。奪っていったのか。自分の記憶が曖昧なところをどうにか説明しようとするのは結構無駄かもしれない。


教育熱心

母は教育熱心であった。この教育熱心は褒め言葉ではない。彼女は理想が高く、人に自分の理想と正しいを押し付ける人であった。今の私の視点で言えば、彼女は自分の思ったことを正しいと考える。そこに根拠はなく、理由の説明はなされない。

 

しかし、母は自らに自信を持っているようだ。その自信は内部からの理由ではなく、他人が私を褒めてくれるから。そういった外部に支えられた自信のようだ。ゆえに彼女は自らの正しさと理想を人に押し付けるとき、その理由を必要としない。彼女にとって、自らの意見は絶対であるようだ。反抗するものは、彼女にとって間違いだと決めつける傾向がある。ゆえに、私にとって彼女と何か話をすることはひどく疲れる。彼女は良いと悪い。勝者と敗者にひどく拘る。それは彼女の正しさに起因するのだろう。

 

彼女は、人それぞれが意見を持つことを彼女は未だに許容しきれてないように思う。自分の考えは常識であり、世間の常識であるがゆえに正しい。これを土台とし、彼女の会話は発せられるようだ。これは特に家族に対して、攻撃的な側面になる。私や姉や父は、母と他人である。他人であるがゆえに、それぞれ自分の思考や根拠、感じ方によって、自分の意見を持つことがある。その意見が母と相似しないことは、多々ある。ひどいことになる。烈火の激情だ。ゆえに私は彼女のこと感情的な側面をトラウマとする。

 

母は世間的には自らを人から認められる優秀な人物だと豪語する。人間はいくつか仮面がある。彼女の世間体への仮面は実際に優秀なようだ。彼女は保険の営業員をしていて、優秀な成績を収めているらしい。表彰式に呼ばれた。会社でもよく褒められる。そんな報告を母は言う。しかし、こと家族への仮面に対しては私にとってひどく受け入れがたい歪んだ思考であると私は思う。彼女とは、家族ではなく赤の他人としてならうまく付き合えたのかも知れない。

 

私にとって、母がどんな思考をもっていようと、あなたがそう思うならそれで良いと受け入れる立場だ。私はスタンスを取る傾向を持つ。最も、私自身も自らの意見を肯定してもらいたいが故に、感情的な否定をすることもある。

 

彼女は私達姉弟を優秀に育てたかったのだろうか。早い頃から学習させることが、私達の将来に繋がりひいて母自身への感謝に繋がると本気で信じていた。というか今でも信じている節がある。母は常々私達姉弟が成長したあとに彼女の期待に答えないことに裏切り者、お金と時間を無駄にした。そう言う言葉をよく発した。

自分の母への感想だ。夕飯をつくってくれたことも、何かを買ってもらったこともあるはずなのに。私の心はかくも狭い。

 


寝る前


彼女は中国人であった。そして日本語を話すことができた。父は日本人であり、中国語をまったく喋れなかった。ゆえに家の中での基本的な会話は日本語であった。私は日本語を身近として生きてきた。

 

母は私達姉弟に中国語を覚えさせようと考えた。寝る前に、中国の絵本を取り出し、私達に暗唱するよう促した。子供の頃は、うまく暗唱することで喜ばせることができる。そう学習していたのだろうか。素直に従っていた気がする。

 

それでも、朧げに苦い記憶も在る。彼女は規定した場所に至るまで、暗唱ができないと私達は寝ることができない日があった。彼女の教育熱心で、押し付けをする圧力。母は自分が正しく、母に従えばうまくいくという考えを隠さない。

 

今でこそ私が肉体的に成長したため控えめになっているが。私の人生の大部分において、おおきなトラウマとなっていく。今思うと、母にとってのおもちゃであった。操り人形のようなものだった。そして、父は無関心であった。私は幼少期の父の思い出がまったくない。良いも悪いもない。父はことなかれ主義で日和見主義だったと後で分かる。父のエピソードは小学生のあたりから、私の中に残り始めるようになる。

 

 

次へ

引っ越しが終わり。幼少期の終わりまでの話はこの程度だろうか。正直、小学生の1,2年生と幼少期の記憶はひどく混じっている。
もしかしたら、同じようなエピソードがまた大きく話すかも知れない。最も、書いている途中に頭の表層に浮かんだものを思うままに書いていることを留意してほしい。


これは同情の物語ではなく。悔悟でもなく。ただ確認の物語だ。
私自身がおそらく変だとわかっているのに、それに縛られていることを認める物語だ。

 

次は小学生入学の以後の話だ。