回想録4  小学生編その2

時系列がはちゃめちゃ

 

ポケモンのビデオ

VHSと呼ぶのだろうか。うちにはビデオデッキがあった。テレビで放送されたアニメや戦隊者を録画しては、暇があればずっと見ていた気がする。
ポケモンアニメは初代だったはずだ。サトシ、カスミ、タケシがいた。ビデオに保存されていた内容は、赤い長い髪をワックスで固めた女性、ムサシの話だった気がする。ムサシが自転車にのって、チェーンを振り回していた。あはははと笑っていた。どんな光景だ。


あとはポケモンリーグ戦の場面かな。リザードンがゴローンを地球投げして破壊するシーン。あぁ、キングラーもいたな。サトシがオーキド博士から借りたキングラーがやたら泡をふいていた。水上のステージだった。マダツボミケンタウロスも出てた気がする。ケンタウロスはじわれを使って、結局まけて目を☓にしていた。割とマイナーなポケモンが活躍してるんだな。

 

 

ガオレンジャー

ガオレンジャーアバレンジャー?通称日朝枠。日曜と土曜日の朝は、朝6時にいつも目が覚めた。
アニメがやっているからだ。大体6時30分から~10時30分くらいまで子供向けのアニメが土曜と日曜日にはやっていた。女の子も向けのものも、男の向けのものもあった。
おジャ魔女ドレミがやっていた気がするが、正直かなり記憶に薄いんだよね。ピンクと紫と眼鏡の少女は覚えている。


子供の僕にあっていたのは、仮面ライダー系列より、戦隊モノであった。ガオレンジャーが特に好きだった。緑の色のゴリラの乗り物バナナを敵に投げつけると相手が爆発する。意味分からんが、緑ゴリラは本当に好きだ。


気づかなかったけどゴリラマジで好きかもしれねぇ。遊戯王にも怒れる類人猿っていう、類人猿ではなくゴリラそのままのカードがあった。好きでした。
動物園でもゴリラが一番好きかもしれない。英語の教科書で、ボノボの話があった。ボノボは好きじゃないんだ。なぜか。

 

ぴちぴちぴっち

前述の通り、日曜朝。土曜朝にはアニメがやっている。選り好みをしなかったので、少女向けアニメをもちろん見ていた。
プリキュア初代を見た記憶がある。白と黒。あとは、ぴちぴちぴっち。こっちはちょっと記憶に残る会話を小学校でした。


習字の時間だったろうか?クラスの女の子達が、ぴちぴちぴっちの話をしていた。そこにN君?U君?だれだっけ。まぁ、やんちゃな少年ももちろんいる。3年のことだっけな?
そいつは確実に”ぴちぴちぴっち。”を知ってると俺は今でこそ思ってるが。ぴちぴちぴっちのことを、”ぴちぴちぴちぴち”?と仰っしゃりおる。正義感爆発、そう嘘は許さない。俺は「違うよ。ぴちぴちぴっちでしょ?」と正した。なんで知ってるんだよ?と言われる。そりゃ見てるから知ってんだよ。
だが、N君はようするに、「お前女の向けのアニメ見てんのかよ。やーい女女~」とつなげるわけだ。女の子も「えー?!」なんて言いはじめる。ぴちぴちぴっち見ちゃ悪いか。ぴちぴちぴっち。人魚の話だ。ぴちぴちしてるだろ。返信もする。足は、生えたっけ?

 

墨汁

基本的に学校には様々な細かい道具を要求される。ホッチキスやら、ハサミやら、絵の具や筆やら。お裁縫セット、は中学校か。体操服に赤白帽子。上履きも。ものさしに、鉛筆、消しゴム。なんじゃこりゃ。私は授業に必要な道具が、何か1つか2つ。あるいは全部が足りないことがたたあった。


墨汁もその1つだった。買ってもらえなかったんだっけ?汚れまくった習字セットの墨汁容器は空っぽのままだった。墨汁がなきゃ、授業に参加できないわけだ。文字書きたいわけじゃないけどさ。


習字の授業は、3,4年生だっけな?自分の字が汚いな―ってことを認識していたから、好きでも何でもなかった。ある日、先生から墨と水で墨汁を作れることを知るまでは。先生も薄々気づいてたんだろうか。なんでこいついつも墨汁もってないんだ、って。
作り方を知ってからは、ずっと墨を水にこすっていた。音も感触も、色の変化も気持ちいい。透き通った水に黒い線が滲んでいく。やがて線が漂いながら広がり、真っ黒になる。続けるとより黒が深くなる。水に黒い線が滲んで広がって幾何学みたいになる瞬間がもっとも好きだった。今でも無心にいつまでもできる自身があるよ。


ファーストキス

1年2年生とかの時系列をバラバラに思い出したものを羅列している。めちゃくちゃ。


ファーストキスは親をのぞけば、いや自分から主体的に親にキスを望んでないぞ?赤子のころな。親父にキスされた思い出がある。ホモかよ。姉はどれくらい成長したかを父に弄られてたなぁ。危ないよな。危機一髪、近親相姦はなかったらしい。父のセックスはヨーロッパだったら、家庭内レイプに認定されてたろうしな。日本人のあの時代でよかった親父。


ファーストキスは、男だった。H君。聖人みたいな名前をしていた。いや、キスじゃないか。昼休みに鬼ごっこをしていたところで、お互い前方不注意。交通事故でどっきゅん。唇はずきゅーんばきゅーん。唇と言うより歯である。顔全体である。顔全体で頭突したともいう。


周りがやたら囃し立てるもんだから、ふたりとも顔を赤くし、苦笑いしながら教室に戻った。追求してくんなやめろとうるさいなーと。気になるなら、お前らでしてみればいいだろ。

 

中学生の頃に、仲が良かった同じ部活でアホのAR君がいる。そいつがM君に盛って、ディープキスをかましたのを覚えている。M君中性的で、身長もかなり低かったからなぁ。正確もかわいかった。M君も、ちんこに指サックはめられたり、中なかおもちゃにされてんなぁ。ARのきもいディープキスはともかく、ちんこ指サックは嫌がってなかった気がするんだよなぁ…。


A君

小学生の3年、4年生以降を語るにあたって、絶対に避けれない。私の原初の記憶がある。A君だ。彼は1年生の頃は同じ学校に通っていた。母がA君の母と仲良くなり、A君とよく遊ぶようになった。前述のARとは別人である。


2年生頃だろうか。A君は家の事情で、別の学校に引っ越すことになった。さよならA君。しかし合縁奇縁はあるもんで、1年か2年後A君はまた同じ学校に戻ってきた。私はやがて文字通り、一日中彼の家に入り浸ることになる。


彼はたくさんのおもちゃ、たくさんのゲーム、そしてパソコンを持っていた。彼はおもちゃ箱の主みたいな人だった。喧嘩することもあったり、しばらく連絡をしないこともあったが彼とはとんでもない時間を遊んだ。一応いまでも連絡を取る関係が続く。


彼とのエピソードはそれぞれ別のところで語ろう。ただ一つ言えるのは、A君がいなかったら私はお椀にご飯粒を残す汚い食べ方をしていただろう。挨拶の重要さを学ばなかったろう。感謝の”ありがとう”という言葉を知らなかっただろう。自分で使えるお金という概念を知らなかったろう。

 


ふでばこ

青いキャラものの筆箱を持っていた。デジモンだったはず。中に、鉛筆を入れて固定できる鉛筆入れがあるんだけど、ろくに機能していなかった。構造おかしくね?ゆるゆるすぎる。ランドセルの中に開発者を叩き込んでやれ。分からせろ。
おかげで、鉛筆の先端は常に潰れて挙句の果てに、ランドセルの中で激しく乱暴にされた筆箱は自らの役目を放棄していた。彼自身は自らの無力さに打ちひしがれていたろう。バキバキで真っ黒よ。

 

バトル鉛筆

ドラゴンクエストバトルえんぴつが遊びではやったことがある。
私はねだっても買ってもらえず、貸してもらうことで遊んでいた。ありがとうMK君。
いつだったか、中学生?バトルえんぴつをけっこうな本数買い1人で遊びまくった記憶がある。むなしい。

 

消しバト

これは小学5,6年の頃かな。机の上に消しゴムを各自でおいて、それを鉛筆や指ではじく。相手を場外に弾き、最後まで机に残っていたやつが勝者。そんな遊びが流行った。
柔らかい消しゴムを机に貼り付ける要塞型。でかさは正義ヘビー級王者型。攻撃力0ねりけしと消しカスの可能性型。シンプル・イズ・ベストMONO。あの遊びは男に消しゴムの買い漁らせた。だからって学校目の前に文具店に買いに行くなよ。カドケシは、ケシバトにおいてゴミだって。


僕は技術でカバーした。適切な力で弾けば十分勝てる。鉛筆だと折れるから、ボールペンだ。消しゴムを弾くための、ボールペンにもランクがあった。ばっか見てぇ。でもおもしろかった。みんなお金をかけて文具を買っていた。おれはロートル気取りで、ニューカマーをぶっ殺すことに楽しみを見出していた。無駄金乙だ。場外戦術が汚すぎる消しゴムバトルだった。ちゃぶ台返しは、報復がやばかったからだれもやらなかった。1人のやたら発育の良い巨人の専売突起になっていた。
現代に蘇ったおはじき。人狼ゲームばりの心理戦。裏切りは最初か最後に限る。

 

道具箱

これは、いつの時代だろう。思い出したキーワードを適当に羅列して内容をかくと、どうにも中身をつかめないキーワードもある。
小学1,2年生のときは、算数を学ぶのに算数箱?を各自持っていた。プラスチックのコインとか、図形とか。入っていたはず。が、そもそも教室獣であったため、机とイスの位置すら多分ろくに把握してなかったんじゃないか?流石にないか。自分の教科書置いてあるしな。机のなかみが狭いから、算数道具箱をいれるともうほかのものがろくに入らなくてうんちーと思っていた。肝心の算数道具箱の中身も、いつのまにか消滅していて、ろくなものが残ってなかった気がする。

 

赤白ぼうし

小学生では2つほどの赤白帽子を持っていた気がする。初代赤白帽子は、姉のお下がりだったかな。顎の下で固定する紐をつねに口の中にいれてしゃぶっていた記憶がある。
紐はびらびらでびろびろのぼろぼろ。まてよ。赤白帽子がない記憶もたくさんある。体育の時間は赤白帽子の着用を強制される。基本的にかぶっていなかった気がする。なくしては見つけたり、貸してもらったり。
不思議がまた1つ増えた。

 

茶髪

小学生時代は髪が茶色かった。ハーフの影響だろうか。イケメンにうまれたかった。アジア×アジアじゃなぁ。ませた女の子が髪を茶色に染めてきて、なぜ私はダメで、あの子(僕)はいいの?!!と泣いていた。知らん。小学校のルールほど意味わからないものもない。教育の場に合理と理性と理由ではなく、伝統と慣習で規則を決める。科学的じゃだめなん。


離散と家出

私が小学校に入学する前、一度ひどいケンカで家族が離散した。母が、私と姉をつれて家を出たのだ。理由は父のひどい暴力だったと聞く。
まぁ、さもありなん。父は口より手が先に出る、感情的なモンスター。真実かはしらないが、バツ2。これが三度目の結婚。おれはあったことがない腹違いの子供までいるとか。


どれも暴力が原因で別れた、と姉が言っていた。父はひどく歳をとっていて、戦前世代の生まれだ。歳が分かるだろう?俺を生産した精子は年寄りってことだ。性欲魔神でもあったらしい。彼の人生は彼のものであるため、深くは言及しない。俺の仕事じゃない。


私はひどく幼かったため、抱っこされて狭い部屋に住む場所が変わった。その程度しか覚えていない。母はひどくストレスがたまり、より不安定だったようだ。
姉が母と喧嘩になり、刃物を向けられたからガラス窓を破って逃げたんだ。そして近所の人に助けてもらった。そう言っていた。

 

人間は弱い。彼女は強がりだが、精神的に弱く脆い人間だ。重々承知している。時折許せなくなるが。弱さを悪いとは思わない。ただ姉が生きていてよかった。これを機に、母は仕事を始めた。母は夢想家で、ことあるごとにこう言う。「一家で男が家族を養うのは当たり前だ。他の主婦なんて、誰も働いていない!」と。得も知れない、不気味な理想を感じる。


母の根底のこの気持ちは残っているらしく、時折口に出す。母は仕事において、有能で在るらしいので、1人で生きていけると思うのだが、なぜそのまま別れなかったのだろう。やはり不安だったのだろうか。この家族もやはり病気である。


この離散は長くは続かなかった。父が謝ったらしい。父は世間の目をひどく気にする人間だ。見栄とプライドが高い。嫁に逃げられたと噂されることに、たえられなかったのだろう。表面上は母に謝罪をしたらしい。いや、したのか?
ただ戻ってこい、と言ったとも聞く。真実はわからないが。結局は元の木阿弥に戻った。根本の問題を無視することで。何も解決していないのだ。
両親は結局ケンカをしつづけ、お互いを攻撃し合う。私の日常の日々は特になにも変わらなかった。

 


Tさんは、両親はケンカをすると知った。

母は仕事をはじめる上で人と出会ったようだ。小学生になる前だったため、仕事中に私を会社に連れて行くこともあれば、友人の家に残しておくこともあった。Tさんという方の家においてもらうことになった。


Tさんはあまりいい人柄ではなかったらしい。Tさんは大人の女性だ。結婚もしていたはずだ。私に、家族は仲がいいか?と聞いた。私は素直に答えた。「いつも喧嘩している」と。Tさんは迎えに来た母に、そのまま伝えたようだ。この女の思考回路が理解できない。いや他の誰の思考回路も理解できへんけど。時間による経過だけじゃ、成熟した精神は生まれない。これは確実だ。1億年経とうと、精神性を養うことをしない限り未熟なままだと私は思う。母にも、このTさんにも。女性にも、男性にも。人は。


母は、Tさんの家ではにこにこしていた。彼女の外界への仮面はひどく美しい。最も、よくよく会話をしてみればその仮面のしたからあふれる言葉はひどく歪だと分かる人は分かるが。彼女の車に乗った私は、ひどくぶん殴られた。母はなんで?と言った。なんで?独白だ。


なんでという言葉はお好きだろうか。私は、この世で一番好きじゃない言葉の1つだ。なんで?ねぇなんで?自分の口から時折顔を出すこの言葉を、ひどく嫌っている。出てしまった瞬間に、首を締めて下を噛み切りたくなる。怒りにのまれると、出ることがある。


母の言う「なんで?」は理由を求めていない。理由を知りたいわけはないのだ。彼女は理由を重視しない、理由という概念を知らないのではとすら思う。
母の「なんで?」は”なんでそんな馬鹿みたいな行為をしたんだ。死ね。”ニュアンスとしてこんな感じ。疑問ではなく、責めるため、攻撃のための言葉だ。

 

人はだれもが自分独特の意味を言葉に見出す。普段間違えて使ったがゆえに、使われたがゆえに間違った奇妙なニュアンスを学習してしまう。環境って大事よね。


彼女の怒りに対して、子供の私は常に無力だった。泣き、ただ謝罪の言葉を口に出す。もうしません、ごめんなさい。母のそれは叱るでも、諭しでもなかった。怒る理由は彼女を気分を害したから。それが全て。私がどう悪いのか。そんな説明はない。要求だけがある。仕打ちを受ける。罰だと言う。

 

彼女の気分の雨が降り止むまで、彼女は気分赴くまま、感情のままに幼いわたしを挫いた。肉体的に、精神的に。自然への脅威のようで、嵐であり、火事であり。地獄であった。その日はごはん抜きだった。”教育”だ。免罪符であるかのように言っていた。

 

愚かだよね。最も他人に相談しても、子供の言うことなんざろくに聞きやしない。この頃のわたしは、常に無力感を感じていたろう。相談者は母と父に私の相談内容を伝える。なんで伝えるんだろうな?冷静な会話が、彼らを変化できると信じ切っているのだ。愛でたい頭だこと。幸せで、周囲を信用できる素晴らしい環境に身を置いているのでしょうね。あいにく、我が家はモルドバ。信用と協力が失われた国なのだ。

 

カウンセラーも教会の牧師も無力であった。母も父も、何一つ変わらなかった。母も父も、大人特有の力で、脅し、脅迫し、屈服させ、暴力をすることを自然だと、この狭い家族という世界における絶対のルールだと心の底から信じていたのだから。戦争に勝つのは、暴力だ。ゲリラ戦による嫌がらせ。精神攻撃は基本だろう?

 


父はキリスト教

父に最もユーモアを感じる瞬間だ。犯罪者が免罪符を買う、ルターはこんな気分で彼らを眺めてたろうか。とにかく滑稽だ。聖書を口遊、お布施をする。なんのために?自らの行動において、示されない限りそれは振りでしかない。


周りに自らの誠実性を見せつけてでもいるのだろうか?本性を隠して?だが、そんなクズみたいな父でも、いつかは死ぬ。死を憐れだと思うだろうか。可愛そうだろうか。私もなんでも、両親に向かって死ね。と口癖のように言っていた時代が在る。


彼らもいつかは消えてしまう。私は泣くだろうか。涙が出るだろうか。もっと親孝行しとけばと思うだろうか。悲観主義者の予測はひどく当たる。楽観主義者よりも。統計的な事実だ。私は、何も感じないと予測する。あぁ、死んだか。そう思うだけで終わる。1つの時代の区切りにも感じるかも知れない。それでも、ふとした同情は湧くだろう。誰もが死ぬのなら、彼らなりに多少の満足を持って死んでいけと願う。死が避けられないのなら。


私は死にとらわれている。死を厭み恐怖している。
私が死んだあと、世界は続いていく。そしてそこに私の自我は永遠に存在しないことにひどく恐怖を覚えることがある。死を考えると、ひどく虚しい。全てが無駄だ、そう結論づけてしまう自分もいる。自分には複数の自分がいる。ひきこもりっている間は常にそんなことを考えていた。


なんで

Why。理由を聞くために使え。相手の行動を責めるために使うな。行動とかそのときの判断だ。間違っていると思っていても、行動は示される。正しいと思っていても、行動が示されない時もある。


三者が客観的に、その人の罪を指摘し、正しさを強要することはひどくおぞましい。気持ち悪い。だれもが終わった過去に大して、他人に対して、言葉を無責任にかけられる。そして、そんな大層な言葉をはいた人間が自ら過ちを犯す。


人の振り見て我が振り直せ?「罪のない者だけが石を投げよ」何千年前の言葉だ?
俺も、あいつも、みんな、猿ばかりだ。人は完全じゃない、完璧じゃない。間違いを犯す。判断を違える。勝手に変える。正しさを思い込む。悪いと排斥する。良い悪いもないときもある。前提に受容と許しがいる。歴史は繰り返し続けてるが。学校で学ばせろ。この世のいくつかの原則を。主観を排除した、事実がいくつかあるだろう。体験知でしか分からないのか?なら体験知を組み込めばいいだろう。


なんたって人は忘れるのだ。自動的に受動的に。忘れることは楽だ。必要なことを思い出すことは、なれるまで主体的に意識的に行わなければならない。頭の中で、無数に繰り返すことでいつしか自然と自分の理念になる。
人はめんどくさがりで、楽をする。それだけの話だ。


しゃけの皮とかぼちゃ

しゃけの皮の食感が嫌いだった。今でこそ、食べられはするが柔らかいぐにゃぐにゃした食感は好みではない。パリパリ、いやバリバリになるまで乾燥した皮は喜んで食べる。
かぼちゃの皮も、苦味を感じ水分をとられ食べづらかった。食べるまで寝られないなら、食べるしかないわな。拷問である。

 

 

では、またあした。小学校はひどく長い。その上あくまで過去だ。