回想録 小学生編12

 


感想文

夏休みの宿題には、読書感想文がある。作文用紙数枚にかけて自分の読んだ本の感想を書く。自分の感情だったり、本の流れにそってどうして登場人物がこんなことをしたのかだったり。もし自分だったらどうするか?を面白おかしく書く。嘘日記みたいなもんだ。


いつだったか、神様のいないなんたら、そんな本の感想文を書いた。孤児だった女の子、それを助ける友達の少女。子供ころは親が何でもしてくれるけど、成長するにつれて自らで手に入れる必要がある。子供と大人の変化に関する気づきを与える本であった。内容は大事だけど、今回はあまり内容の話ではない。感想文への導入だ。図書館は家の煩わしさがなくなる。静かにただ物語に没頭できる穏やかな時間であった。題材の本も図書館でたくさん読んだうちの1冊にすぎない。


私は本を読むのは、好きである。字はお世辞を盛りに盛って味のある字だね。かろうじて褒められる。自分くらいは褒めてあげよう。作文を居間のでかい机で書く。母親がやってきて、小学生にたいしていちゃもんをつける。字が汚い、とか。もっと上手にかけないの、とか。なんだぁこいつ?彼女らに褒められたことがない気がする。唯一算数を褒められたことはある。将来公認会計士になれるね、と拒否権のない夢をプレゼントされた。字をうまく書く方法を享受されたことはないね。

 

僕の字が読みにくい理由はわかっている。速く書く。文字の線同士が切り離されていない。続け文字になっている。速く書いて、自分だけが読むのには大変分かりやすい。人に読ませるのには向いてないだろう。昔からメモ魔であった、自分だけ読めればいいそう思っていた。


ただ、最近はどうにも自分の書いた字も読めないことがある。脳みそくん?パソコンのきれいなフォントに慣れすぎたせいか。自分の字の汚さを再認識するとね。

 

いつだったか、学校の宿題が出た。一日の日記を書いてみて先生に提出するだったかな。
私は見事に忘れていた。寝る直前だった。布団に入って寝る準備万端。母親に叩き起こされる。親に渡したプリントに混じっていたらしい。プリント渡すなんてのも懐かしいなぁ。今はもうスマホあたりに自動送信されてるの?


僕の時代には、紙とインク代の節約のためとかいってざらざらのわら半紙に印刷されていた。ぺらぺらで、ランドセルに押し込めばすぐに潰れてぐしゃぐしゃになる。大事な書類だけは、A4のきれいな紙で手渡された。

閑話休題

日記なんて言われても、自分がすでに眠い。私自身、こういった書物でいい評価をとった記憶もなかった。ならば、とりあえず適当にでっち上げて眠ろうと書き始めた。
先生に提出し、返ってきた評価は花丸だった。なぞ。内容も覚えておらんかったから、読み返してみた。
「とても眠いです。親に渡したプリントに宿題がまざったせいで、叩き起こされてうとうとしながら書いている。」とはじまる。あとは日頃の親への恨み辛みが永遠と400字詰め作文用紙を読めていた。これが花丸なのか。先生は昼ドラが多分好きなのでしょうね。

 

3,4年のときはスイミングスクールなら、5,6年のときは塾に通わされた。市進だ。教育(笑)ママは私自身求めてもいないのに、塾に放り込むことを決めたようだ。
自分から勉強する気もないのに、塾に行かされれば勉強すると思ってたのだろうか?目出度い脳みそしてやがるぜ。そもそもなんで行かされているのかも理解してなかった。母は俺を受験させたかったらしい。


母は人から影響されやすい。母は中国人の友達がいた。かの家族はみんな中国人。S君と言う、僕より1歳年上の男の子がいた。エリート一家だね。S君も今はアメリカ在住で、なんかすごいことしてるらしい。


母は彼らが受験すると聞いて、僕にも受験させることを決めた。安易だねぇ。今の持論だけど、日本において小学生受験の意味はあまりないと思う。仮に受験させるんだったら、小中高大レベルまでの学費を払える財産。慶応、早稲田、学習院あたりじゃないとまるで意味がない。そこらへんの底辺私立の小学校に行ったところで、その先のプランなんぞまったく考えてなかっただろう。


塾に生かされることで、睡眠時間は減った。もともとやる気もない宿の宿題が、学校の宿題以外に増えたからだ。遊ぶ時間ももちろん減った。塾でも、ケンカばかりしてたな。塾の宿題を終わらせないと、母は俺を叩き起こし、終わるまで寝かせない。おかげで勉強はすぐに嫌いになった。この方法で勉強を好きになる人がいたら教えて下さい。世界の教育方法をみれば違うってすぐ分かる。自分より頭のいい人なんて無限にいる。上には上がいる。そのトップと常に比べられて、ダメ出しされる。褒められることもない。甘えてる?そうは思わないな。


受験自体も失敗した。ろくに勉強してないんだから。宿題もでっちあげの数字をただ埋めるだけ。2つほど受験してどっちも落ちた。俺は喜んだ。公立の中学校に通えるようになったからだ。はーっはー、最高だぜ。
ちなみにこちらから頼んで分けでもなく、強制的に通わされたにもかかわらず感謝を強要された。馬鹿なのかな?お金をドブに捨てたと言ってくる。これずーっと言い続けるからね。知るか。


鉛筆とシャープペン

小学校のルールなのか、シャープペンは許可されていなかった。鉛筆オンリー。シャープペンを使うと注意される。理由はなんだっけ?とんでもない屁理屈だった気がする。学校はそんな変なルールが多かった。
全員が全員同じような平均を目指すことを強要される。異常値のぼくなんかは、端から切り捨てられていた。学校はそんな場所だ。青空教室ではない。


ロケットペンシルという、鉛筆ともシャープペンとも言い切れない文房具があった。先端を取り外せて、お尻に指すことで新しい先端が生えてくる。分離した鉛筆の先端の集合体。没収されてたね。
シャープペンも、ボールペンも分解して遊ぶことができるから。あぁこんな理由だった。分解できるとダメらしい。僕は鉛筆の芯をくり抜いて分解してたけどね。


ランドセルを卒業した人

身長が伸びて体格が大きく成長する年齢になると、ランドセルが使えなくなる人達がいる。特に女子で身長が160cmを超えている人は、その傾向が多かった。精神的な成熟で、ランドセルが子供っぽく見えはじめるって理由のが割合強かったと思うがね。ランドセルはかっこよくはないわな。ハリウッドスターの間で一時期流行ったらしいけど、宣伝だと勝手に決めつけている。あんなでかくて重いのを日常使いするなんて狂気を感じるよ。
彼らは中学校で使うようなスクールバックを使っていた。肩にかけることができる。ランドセル組の僕としては、卒業までは縁がないと思いつつ少しの憧れがあった。


本の分間でテトリス

テトリスと初めて会ったのはいつだろうか。DSのテトリスは対戦ができる。対戦ができるゲームってのはやはり熱いね。DSという子供も今では死語か。画面が上下2つあり下の画面はタッチすることで反応が帰ってくる。
テトリスはシンプルであるからこそ、無限に永遠とできる。やりすぎて頭の中でもテトリスをしていた。ブロックが無限に落ちてきて、テトリスを決める。そのときはTスピンの存在をしらなかった。Tスピンは最強の技なんだけどね。
本を読んでると行間があいたり、段落の隙間があく。そのスキマにすらテトリスのブロックが振ってくる。今でも紙の本を読んでいると落ちてくる。集中が途切れてたときはね。