回想録 小学生編13

 


正月1月1日

新年がきてしまった。2020年だ。喜べ5分の1世紀だぞ。20年前は5歳か。随分と遠回りした。時間を無為に使った気がする。必要な遠回りだったのか?今でも寄り道中だ。
オリンピックも今年か。批判もたくさんあろうが、なんとかなればいい。他人事だ。オリンピックとのつながりはテレビくらいだ。テレビそんなに見ないのだ。


今さっき日課の散歩のついでに、近くの神社?寺?違いがわからない。神道か仏教かで違うのは分かる。鳥居があれば神社らしいけど、鳥居あったっけ?寂れた神社だ。
苔と木で覆われている。昼間であっても日差しは射さない。地面の土は黒々と湿っている。裏口の鎖を超えて入った。猫の鈴をでかくしたみたいな鐘と賽銭箱が置いてある。500円でくじが引けるようだが、あいにくお賽銭用の小銭すら持ってない。
お賽銭もろくに入れないんだから、お作法も知らない。鐘を一回だけ鳴らすつもりが、勢い余って二回三回と鳴り響いた。柏手は打たなかった。手のひらと手のひらを合わせた。


神道では神様に祈り願いを叶えてもらうのではない。神様に自らが願うことの為に精進することを、見守ってください。そうお願いする場なのだと聞いた。朝起きるときの頭の痛み。不安定な鬱っぽさ。新しい機会への出会い。この3つを見守ってもらうことにした。最初に浮かんだのは、今日の朝起きた時のどうにも耐え難い眠気だった。12時辺りには自然に目覚める。それより前に起きようとすると早くに寝ようとも起きづらい。寝起きが最初に浮かんだってことは、一番大事なんだろう。なんとかするから見守ってくれよな。

 

正月の朝になると、お雑煮、タコ、まぐろ、黒豆、かまぼこ、甘い卵焼き。こいつらはほぼ必ず食べる。他には、みかんだったり、野菜だったり。お雑煮にはほぼ豚汁だな。餅は焼いたものを放り込む。壊れかけのトースターで焼く。やたら時間がかかる。
いい思い出も悪い思い出もあろうな。いい思い出をいうなら、やはり飯は美味しい。刺し身はいつ食べても美味しい。悪い思い出といえば、一家団らんをするとは言え、すぐに険悪な雰囲気になるところか。
お年玉ももらってはそのまま懐で守りきれることもあれば、正月早々親と口論になって取り上げられることもある。苦いね。とりあえず寝起きの頭でろくに会話せず、黙っていればなんとかなる。


初詣は家族で行かない。姉は友人とよく行っていたろう。私は家で一人こもっている方が多かった。友達の家に遊びに行こうにも、正月くらいは団欒しているだろうと空気を読まざるえなかった。それに正月は寒い。布団でずっとぬくぬくしたい。正月気分も午前くらいまでだ。午後にもなればいつもの日常とも変わらない。この回想録も、「あけましておめでとうございます」の一言でサボろうとした。時間のつながりで見るなら、正月も所詮は一日にすぎない、と書くことにした。親族全員で集まることも家はしなかった。


正月は一年に1回のご飯を食べる日。そんな印象が強い。お年玉も高校生辺りからもらわなくなった。振り返ってみれば、正月なのにろくなイベントしてないな。内向的過ぎる?

 

一度ニューヨークで歳を越したことがある。ニューヨークの新年はクリスマスボウルといって、街全体でお祭り騒ぎだ。市民全員がまるでカウントダウンしているかのような一大イベントになる。やっぱりアメリカ人はパーティが好きだね。小学校、中学校あたりからパーティって文化がある。騒ぐと言うより、友人や知り合いと楽しむ場所。そんなニューヨークでもPCに向かいながら惰眠を貪っていたね。慢性的な鬱なのか?

 

道路床のタイル

床のタイル模様は好きだろうか。扇形だったり、良くわからない形に組み合わさっていたり。地面は様々な模様と形にあふれている。道路は白線が引かれている。経年劣化でところどころ白線が剥げたり。また新しく白線がひかれ直したり。色と形は遊ぶに持っていいだ。

 

白色の地面だけを踏んで帰る遊びなんて懐かしい。小学生のいいところは、ルールを臨機応変に変えることだ。最初は白線のみ踏むことができるルールとする。歩道橋や、大きな道路が目の前にまたがっているとゲームへの勝利は無理だ。そうなったら、緊急会議。ルールを追加したり横道や例外を作る。白がないときは、黄色だけはOK!とか。教科書を道端にばらまいてその上を踏むとか。最終手段は、学校から持ち帰った給食の白衣袋を踏みつけて、白の飛び石を作るとか。大事なのはルールを守ることよりも、自らの作ったゲームに勝つ可能性をもたせることだった。簡単すぎるなら、新しい制限を加えることもある。逆に今行ったように、難しすぎたらルールを緩めてより楽しめるように遊ぶ。

 

バケツにゴミを投げ入れる時、もし1回で入ったらテストの点数が100点に違いないと願う遊び。あるいは告白に成功する。あれ、告白したことないな…?ベタベタのべたか。1回で入ることもあるが、たいてい外す。別にいいのだ。拾ってそばのゴミ箱にいれるなんてもったいないことはしない。わざわざ最初の場所より少し離れてまた願い、投げる。もし次に入ったら、最初の失敗は取り消しだと新ルール追加。入るまで続ければいつか勝つのだ。

 

試行回数とルールを変えることで、遊びを楽しめること。自分が喜べるほうがいい。今じゃ生真面目に、ルールは守らなくちゃならないなんて頭でっかちだ。唐変木。子供のほうがずっーと楽しみかたを理解している。勝てる可能性があるゲームを自ら作る。難易度をそのつど調整する。ゴールは自分の家だったり、目的地だったり。気まぐれで猫みたいだ。

 

姉とPC

いまだにEメールが残っていることにいささかびっくりしている。姉がPCを買ってもらった。キーボードをカタカタと打って何をしているのかと思えば、どうやらメールを打っているらしい。誰かとPCメールでやりとりをする。友達とPCのメールで会話する。LineやメッセージやSNSある今の時代でいったら、文通みたいな骨董手段だろう。だって友人とだぜ?毎日遅くまでADSL回線の網を使って、友達と会話をする。親にバレずに自分一人だけの空間を彼女は喜んでいたのかも。

 

正月に屋根裏を整理していたら、姉が学校で友人たちとやり取りしていたであろう手紙が山ほど出てきた。姉の思い出ゆえ捨てるわけに行かない。そのまま放置を決めた。姉に連絡しても、姉が持っていくことはないだろう。捨てられない思い出だが、決して思い出されてない朽ちていく記憶なのだ。僕の回想録も憎しみ恨み辛み呪詛や鬱っぽさで作られている。やがては時間の流れに押し流されていくのだろう。そう願う。

 

 

 

少し鬱っぽいな。