回想録 小学生編16

 

なんちゃら山公園

近くに山がある。うちの周辺は古びた城跡が残ってたり、旧街道が通ってたりする。我孫子はかつて栄えていたから、そのとおりに道にある家の周辺は道路が多い。僕の街は、駅の周りは開発されて発展しているが、うちの周辺は田舎だ。住宅街である。ちょっとはなれれば田んぼだらけ。ほとんどは黒いアスファルトの道路。


アスレチックがある公園があった。車で連れて行ってもらっていたから、どれだけ離れているかは正直覚えていない。中学生辺りで自転車でいくと結構時間がかかった。車ってすごいな。
車を運転するのはもっぱら父親だった。親父が暇なときに、そのアスレチック公園に連れて行ってもらう。入場料もかからないから、財布にも優しかったんだろう。
アスレチックには20種類以上はあったのかな?綱渡りだったり、切り株の上をジャンプして地面に落ちないようにしたり、揺れる木の足場を渡ったり。ボルダリングのような壁を登ったり。最も子供にもできるような難易度だった。大人がやればいとも容易い作業だろう。体のサイズからして合わない可能性もある。垂直に地面から空にのびる鉄棒を登り、頂上にある輪っかにさわるアスレチックが苦手だった。握力なのかな?何の変哲もない鉄棒を登る。学校にもあって何回か練習したけど、どうもうまくイカなかった。


焼肉屋

母親とごはん処にいくと、多くの場合は、家で作れる。家で作ったほうが美味しいと言う。そうかなぁ?と疑問符が頭にぽかぽか浮かぶわけ。外食でも美味しいところまずいところはもちろんある。納得できることもある。根本的に料理なんてよほど変な味付けをしなければ美味しいわけだ。一定の味の信頼がおける外食は、味の幅不安定な母の料理よりも安心して食べることが出来た。焼肉屋の話じゃないじゃんね。母は食べ放題の焼き肉が好きだ。特に海鮮系が好きなようだ。エビ、カニ、ホタテ。海鮮系の食べ放題にいったほうが良いんじゃないだろうか?僕も寿司好きだ。


駄菓子屋

おもちゃ箱A君の家の近くには、寂れた駄菓子屋があった。年をとった気の強いおばちゃんが経営していた。気の強さは万引対策だったのかな?と今は思ったり。
A君のママから500円を受け取る。A君からおごってもらうことも多かった。小学生の頃には、お小遣いなんてものをもらってなかった。その硬貨を握りしめて駄菓子屋に行く。駄菓子屋に子供がいっぱいいるわけじゃないけど、僕たちだけは結構通っていた。遠足のお菓子もよくそこで買っていたよ。おばちゃん200円で買うからおまけして!というと、200円より少しお菓子の量が増えるわけだ。


最もよく食べたお菓子はなんだっけ。タラタラしてんじゃねーよ、長方形のイカのすり身棒、ペペロンチーノだったかな。イカばっかりじゃね―か。焼き肉さんとか、安いお菓子なんて全部イカか魚のすり身だから仕方ないだろ。イカを崇めろ。イカのおかげで小学生は焼き肉の味を楽しめるんだぞ。イカじゃないけど、ペペロンチーノはごちそうだった。ペペロンチーノとは、60円で買えたカップラーメンのことだ。


僕的には、ブタメンよりもペペロンチーノのほうが味的にも満足感が強かった。お湯を残すか抜くかでラーメンかパスタと選択できるのも良かった。美味しいスープを飲みたかったから、ラーメン一択だ。駄菓子屋にはお湯があってその場で食べることができた。ペペロンチーノうまい。コンソメに唐辛子、にんにく、塩。そんな味。まずいわけ無いだろ?


駄菓子屋のおばちゃんは子供の扱いにやっぱ慣れていて、お菓子を買うとおまけをしてくれた。おまけ。いい響きだよね。何かを自分で選べるわけだ。10円とか20円とかその程度の商品だけど、それでも+αは嬉しい響きだ。いまでもやってるだろうか?15年も前のことだから流石にもうやっていないかも知れない。


500円

駄菓子屋のお菓子屋にいくときにA君は家にあるKさんの500円玉ビール缶型貯金箱をばっこりと開けて500円をかっさらっていく。Kさんにはぶっちゃけばれてたろうな。正直に話すと僕も500円をそこからちょろまかしたことがある。盗人だねー。ごめんなさい。


ラジコン

A君は良くラジコンで遊んでいたな。彼は車が好きだった。I君というPCがとても得意な友人がいる。I君もよく一緒に遊んでいた。I君も車が好きで、A君とは車のショーだったり展示会だったりによく一緒に言っていたようだ。僕は車にはあまり興味がなかった。

 

ママ、パパ、あなた

親をなんと読んでいただろうか?かつてはママ、パパと呼んでいた。今は、あなた、と呼ぶ。色っぽさや艶っぽさはないよ?Youのあなただ。君、とは呼ばないな。きみ、を使うのは自分より遥かに年下の子供達には使うかも知れない。自分の一人称は、ぼく、おれ、わたし。口語だとぼくがしっくりくるな。おれは使ったり使わなかったり。気分による。我は使ったことない。

 

巨人のM君が突然一人称を、我にしたことがあったな。漫画の影響を受けていたんでしょうね。いや自分も覚えてるなかで語尾を変えることよくあったわ。漫画D.Gray-manのキャラクターに、語尾に"~さぁ"とつける男の子がいた。名前なんだっけ?眼帯をしていた気がする。例えば「いちごのショートケーキ美味しかったさー」って感じ。良い!いただき!と思って、そのまま現実で暫く試したことがある。いつのまにか辞めてた。めんどくさかったんじゃね?別に女の子にもてるわけじゃなかったしな。語尾は所詮キャラ付けよ。圧倒的個性の前に語尾など無力。影響力は突然に、だ。


ママ、パパと呼んでいたのは、そう呼べと幼い頃に言われていたからだろう。ママだよ。パパだよ。幼い子供はそれを呼び名と定義する。だから小学生のしばらくするまで家族の名前すら知らなかったよね。年齢ももちろん知らない。高校生くらいまで下手すれば知らなかったかも。家族それぞれが腹をわって話し合うこともないから、みんな秘密主義。何を考えているかも良くわからない。どんな過去かも知らない。不思議ですよね。


姉もママやパパと読んでいたが、中学生あたりでやめた。お父さん、お母さんと呼んでいた。俺は高校生くらいまではママ・パパと言っていたんじゃないかな。いつのまにかあなたになった。父を呼ぶ時も、母を呼ぶ時もあなた。感情が怒りになるとお前になる。お前って呼ぶと、彼らの怒りも呼び水になるからあまり使わない。お前って言われるのもあんま好きじゃないしね。だから、あなた。母親には、あなた、と呼ぶことを時々おかしいと言われる。あ、そう。そうやって流す。だれかに意見を押し付けられることや否定って苦手だ。自分ではついつい否定から入ってしまう。環境に影響されてるなー。

 

人と変わる部分は意識的な訓練が必要なんだと思う。人に訓練させるのは難しい。自分を訓練して変わるほうが楽なのは自明の理なのだ。いくらおかしいと思われても両親へは、あなた、以外の呼び方をしなくなった。お父さん、お母さんと呼びたくないのだ。なぜだろね。無意識じゃないんだ。意識的にあなたと呼ぶ。消去法かも知れない。父、母への理想が先行しすぎて父母を使いたくないだけか?現実逃避か?


お小遣いと紙の文字

小学生の高学年にもなるとお小遣いがほしいなと思うようになる。両親に相談してみると毎月500円もらえることになった。0よりマシだ。喜ばしい。初めの数回は直接もらうことができた。2回程度か?やがて父はこういった。紙にかいてお前のお小遣いを管理してやると。素直で純粋な子供はそれを受け入れた。お小遣いはもらえなくなった。意味わからないよね。上げる気がなくなったなら、なんで嘘をつくんだろうって思う。不満を持ってるからね。仮に俺が父親の心境を代弁するなら、なんで俺の得にもならない金を人に恵んでやらなきゃならないんだ?といったところだろうか。

 

父は律儀に毎月毎月紙に500円を記帳していった。おぉ、溜まってるじゃん。お金を頂戴というと、父はこういった。「何に使うんだ?」と。それって大事なことなの?俺がもらったお金を何に使おうか納得させないと自分のお金を引き出せないの?意味がわからなかった。父を納得させないと、お金を自由に使えることが出来なかった。ゲームや本を買おうにも、彼らを納得させないと自分のお金を引き出すことすらできない。お小遣いなんて見掛け倒しだった。

 

俺も嘘をつくようになった。嘘をつくことで利益を得られると理解したからだ。表面上は、本を買うんだと言う。漫画を買うとは言わなかった。小説を買うと言った。あるいはご飯を食べるという。決まって両親は領収書を渡せと言ってきた。適当に領収書を拾うことにした。あるいは忘れた伝える。自分が嘘ついたものに使ってるわけじゃない。領収書なんてあるはずがない。領収書をこすり合わせ肝心の日時や日付を消すことも会った。涙ぐましい嘘と苦労で、自らのお金を引き出していったのだ。食費として渡されたお金を使わずにポケットに残すことでお金を少しずつ集めたりした。それでもほとんどは手帳の中の文字として消えていった。いつしか僕は諦めたのだ。彼らはお金を渡す気持ちなんてこれっぽちもない。"嘘つき"だとはっきり理解した。

 

親への不信感はこうやって溜まった。自分が何かを所有するという経験。自らで何かを買うという経験はほんとうに珍しいものだった。でも、僕はゲームやカードを買うことができた。A君のお母さんが、お金を渡してくれることがあったからだ。1000円どころじゃない、5000円とか、10000円とか。毎日くれるわけじゃない。それでも彼女はお金をくれた。考えてみれば、ありえない。でもありえないことが、身近にあった。不思議だよね。ありがとうございます。与えられることは当然じゃない。幸運だとそのときは気づかなかった。

 

自分のお金

今でもお金に大して現実的な思考を持てていない。生活費を親に依存している。電気代も水道代も自ら苦労していない。わがままな妄想家みたいなやつだ。
くたびれるほどお金に大して理解を持っていないのだ。楽な方向へ楽な方向へと逃げて逃げている。働く、か。長続きしない。うーん、午前に起きられないんだ。12時に寝ても起きるのが昼の1時を過ぎる。12時間以上寝て起きられない。
朝に叩き起こされるのがとんでもない苦痛なのだ。どうにかしようにも、戻ってしまう。悪習慣に慣れてしまったのか、夜寝るのが遅いのか。

 

 

 

 

 

 

回想録 小学生編15

初めに

何かを辞めるときってどういうときだろうか?
何か漠然とした嫌だな、とか。やりたくないなとか、曖昧とした不快感がまとわりついているときだろうか?
やりたくない単純で明快な理由を理解したか、思いついたか、嫌いなものをはっきりと認識したときだろうか?
それとも別のより楽でたのしいことをしてたら、やる時間がなくなったとか。自分が受け身な楽な状態でいれば、能動的にやることで起きるめんどくささを排除できるからだろうか。
意味を、失ったときだろうか。なぜ?どうして?私はこれをしているんだろう。どんな意味が一体あるんだろう?無意味で無価値だと思ったときだろうか。

 

なんでか自分が絶望の淵に立っているように感じる。挫折に横転させられ、自分より優れた他人と自らを比較する。今やってる問題を超えるられる気がしないと混乱してしまう。あるがままに、弱さを認めつづけても飲み込まれそうになる。


人はそんな普遍的でありふれた苦しみから逃げてしまうことができる。立ち向かう人もいる。諦めずに辛抱できる人がいる。一体何が違うんだろうと常々、ほんとうにいつも思う。
他人は他人で、自分は自分だ。自分がそういう弱い人間だと認識した上で、変化に断固たる態度を取れるかどうか。行いとして、現実に持ってくることができるのかどうか。
本は、違いや、なぜその違いが生まれたかが書いてある。理解できたのか?と聞かれると多分本質的な原則として理解が及んでない。自分の腑に落ちていないのだ。

 

 

 

ゲーム脳

小学生の日々は、楽しいこともあった。嬉しいことも喜びもあった。同時にどうしてもやりたくない苦しみもあった。
無気力で、自分ではどうしようもない環境だと諦めグセがついたのはその時からなのかもしれない。僕は辛いことから逃げるようになった。
コントロールできない現実に大して、癇癪を持って暴れるようになった。それって生まれつきなのかな?人はなんでそうなるまで放っておいたの?って正論を言う。正しいよ。理由がわかったら苦労しないし。問題を認識して解決できたら、大きくはならない。理由がわかったらこんな汚泥に沈むような生活をしてないと思う。おっと、つい悲観的な言葉が出てきてしまう。


親とは、私にとって安全で信頼の置けるものではなかった。しかし、私は親に依存している。依存とは、生活的な意味でだ。独立が必要だろうと、親からも周囲からも説教をされる。この言葉を聞くたびに、頭のどこかがきしむのだ。逃避をしているのだろうか。食事があり、寝る場所がある、PCをいじれる。楽な生活だ。今も僕は逃げる付けているのか。パブロフの犬の条件反射のようだ。その言葉で、次の自分の反応がわかる。それは無力感を感じる。無力感を感じることは、やがて無気力になっていくことを知った。人は自己肯定感が必要なのだ。この長く長く続いた悪い私にとっての悪循環。以下にして切り離すべきかと、言われたら相応の苦痛を払う必要があるんだろう。
自らを半身をみとめたうえで、このレールの先に未来がないとも分かる。果ては犯罪者か、自殺か。他者への無限の嫉妬か。甘えためんどくさがりなラクなことを求め現実叩き飲めれた物体ができあがった。


ものをこわす

親に感謝をしようと、本には書いてある。幸せな人だなぁ、と僕は感想を持つ。僕の弱くまだまだ未熟な脳では、彼らが被った苦しみなんて発見できないのだ。美しくきれいなものばかりを見る。裏にはどろどろと溶岩のような苦汁が煮詰まっている。飲み干した彼らの在り方に涙が出てくる。


もしかしたら僕は他人を褒めるのがうまいのかも知れない。もっと口に出すべきだろうか?逆に他人への共感能力がひどく弱い可能性もある。目の当たりにした痛みに大して、自分の体にも起こったような痛みは走る。つまり、他者への目に見えないことへの想像力が乏しいのか。他人と会話をあまりにしないものだから、他人への対話により理解経験が足りない。自らの妄想によって他人を補完する。想像上の他人はいつだって幸福で、満ち足りているように思える。


多くの人を調べてみればはそんなことはない。豊かだった人も、貧乏だった人もいる。親を幼いことになくした。虐待をうけていた。ひどい環境をあがいている人間がたくさんいる。その人をみれば、僕の心が勇気づくだろうか?劣等感にまみれることになる。また嫉妬が燃えはじめる。人間の弱さ。自らの心の弱さは果てしない。まるで宇宙のように際限がない。宇宙だって限界がある、でも見ている僕がちっぽけすぎてその暗さに飲み込まれている。毎日毎日同じような問答をして、もちろん答えがでても納得できるのか。過去に折り合いいつまでもつけられず、ただ管を巻く。疲れるし、悲観的な螺旋だ。昔の僕は、もっと明るく活発だったのにね。そんな過去に縋りはじめる。無邪気な子供になりたい。
今の自分と向き合うこと、笑えてくるくらい口先だけだ。だからこそ、この文字に書いて何かを行っていることが少しだけ嬉しいのだ。


ものを他人にあげる。捨てる。

苦しみとはありふれたものだ。その1つとして、僕は自分のゲームでもカードでもモノを勝手に捨てられることは日常だった。物を買っても、もらっても。母親がいらないものだ、有害なものだと判断すればいつのまにか僕の部屋から消えている。まるでもともとなかったかのようだ。不自然な自然が部屋にある。最初は気づけない。生活のうちに思い出す。探す。見つからない。おそるおそる親に聞いてみる。ねぇ、ぼくの☓☓☓がどこにあるか知らない?と。両親は「知らない」とまるでさも自然であるかのように答える。傷ついたなぁ。こうも平気で嘘をつけるんだって。嘘をついても、彼らは何も想ってないんだって。その口で僕に大して、嘘をつくなって言うことに。

 

家の駐車場、生ゴミの中、公共のゴミ捨て場の中を試しに探す。見つかることもある。影も形もないこともある。ボロボロで汚れて、まるで存在の意味を否定されたかのような姿。頭が冷える。熱がうまれ怒りがわき、急速に、また冷める。これは大きな無力感だ。

 

自分ではどうしようもない大きな力に、うちのめされる続ける。抗う意思すら摩耗していく。やがて行動や全てに自暴自棄になる。ただ、感情の行き場を失い。感情表現すらも下手くそになっていく。自覚すればするほど、なんとか現状を変えようとするほど僕にはダメだった。そう諦めるようになった。立ち向かうよりも、よりラクな方向へ、めんどくさくない方向へと、逃げることが当たり前になった。僕は、打ちのめされた。正解が、自らの行動が何を意味するのか、まるで分からなくなった。意味を探すことすら辞めるようになった。目の前を刹那的に判断するようになった。

 


友人に勝手にメールをする

携帯電話を中学生にでも買ってもらったんだけか。おもちゃ箱ことA君ともメールで遣り取りをする。母は遊びばかりするA君のことを心よく想っていなかった。
常々、友達を選びなさいと彼女は言った。僕は携帯にパスワードをかけていたはずだ。かけていたはずなのに、どうにもおかしなメールがA君から来た。


次の日にA君と会うと、僕に聞いてきた。「おまえ、俺に変なメール送ったか?」とA君は言う。意味がわからなかった。詳しく聞いてみれば、僕からA君宛に、「もう遊ばないでくれ。もう会わないでくれ」そんな内容のメールがおくられてきたと知った。犯人もクソもない。登場人物が少ない事件に名探偵が必要だろうか?イタズラにしては悪質で、人の意思を無視した行為だった。

 

人間に感謝するとは、その一部分を区切ることで示すのだろうか。彼の全体の意味を通して、自分与えた影響を伝えるのだろうか。柄にもない妄想に囚われている。もし、私がよりよい親元と信頼関係を気づけていたらこんな苦しみがなかったのだろうか。なんて。いまの自分をないがしろにしてしまっているだろうか。


自転車と補助輪

初めて自転車に載ったのは小学校2年生かもっと前か。シマジロウのカラフルな自転車だった。補助輪がついていた。ガラガラと走るたびにうるさい。周りの目なんて気にしないかのように、子供は振る舞う。
実際に目の前の自分のことにしか意識が向いてないのだ。環境という大きな力が認識されて、自らの行動を阻むことは少ない。試した後に、環境は幼い子に圧力を示す。
いつまにか補助輪つきの自転車はなくなった。ガラガラする音が恥ずかしくなったのだ。補助輪なしの自転車を買ってもらう。喜んだろう。交通事故に壊れてしまうまで、長い付き合いをした。

 

 

 

 

回想録 小学生編14

初めに

随分サボった。変わりに小説を書いていた。

人は何かを継続するとき、何かを諦めない為に、大いなる意味を持っていると持ちこたえられるらしい。あるいは勝つ可能性のあるゲームと考えるいいとか。細かいことは置いといて、ただ目の前の為すべきことをはじめるのもある。人区切りがいつつくか分からない。小学生編くらいまでは書き上げたいものだ。

 


巣立ちの会

小学校の卒業式の前に、巣立ちの会と呼ばれるお遊戯会みたいな行事がある。一年生から6年生に渡って起こった行事を生徒一人一人が一分ずつ短行で朗読していく。
「一年生!」と担当の誰かが言う、次に、「楽しかった校外学習」と続ける。おままごとだが、小学生はそれは真面目に取り組む。誰に見せるかっていえば、大人達に向かってみせる。ようは両親だ。
小学校は所属している学生たちのために、これだけのことをしてきましたよ。どうですか?そんなことを示し誇る会だ。
素直に従うのが健気だよね。


クライマックの最後ではみんなで口をそろえる。「今」「私達は」「この小学校を」「巣立ち」「卒業します」「「「「卒業します!!!」」」」とこんな流れだったか。歌でもある、一人が歌詞を口ずさみ、他の人が追いかけるように同じフレーズを合唱する。そんな歌のような朗読劇だ。声が揃うのはやはり気持ちがいいものだ。一体感か共感か。体育館は静まり返っている。小学生の声だけが朗々と響き渡る。見てて気持ちいいかも知れない。壮観だわな。


卒業する子どもたちの言葉が終わると、在校生から"ありがとう、さようなら"という歌をおくられる。どんな歌詞だっけか。ありがとうー さよーならー みんなみんなー。あなたたちのことはー わーすれーないー。だっけ?感謝しているよ。忘れないよ。そんな歌詞。この歌は落ち着いたフレーズだ。ろうそくを手にもって教会で歌うような歌だ。でもごめんな俺は忘れてしまったよ。送った卒業生達も低学年の人たちも。同級生すらろくに覚えてない。人間だからね。


卒業生への感謝を込めて歌う歌だが、感謝。感謝?感謝してなかったな。歌わされたから歌った。あくびをしながらね。1年生から5年生で合唱する。
この歌を贈られたときは、お世辞でも褒め言葉っていいものだなと思った。もっと人を褒めろ。

 

 ポケパーク

おもちゃ箱ことA君の家族には大変お世話になった。ポケパークと呼ばれるポケモンの遊園地がいつだったか、一時的に作られていたんだ。その名の通りポケモンのテーマパークだ。
A君とA君の家族に誘てもらい、一緒に連れて行ってもらった。大変ありがたいことに僕は、というか僕の家はお金1円も払っていない。完全にA君家のおごり。どうだってこんなに気にかけてくれたのかはわからない。
ちょうどその頃は、ポケモンルビーやサファイアが全盛期だった頃か。僕とA君はプロアクションリプレイで改造して、とてもじゃないが正規のプレイをしていなかったけどね。チート、ずるをしていた。


肝心のポケパークはアトラクションがあって、ジェットコースターやらがあった。ごめん、あまり覚えてない。

 

A君のママには悪いことをしたな。僕は空気が読めなかった。正直いまでも読めないけど。何をしたかというと。ポケパークまでは車で行った。ついでにゲームも持っていった。園内に入る時にはゲームは持っていかなかった。だって、邪魔になるだろう?列に並んでいると、目の前の男の子がゲームで遊んでいる。どうせなら通信対戦をしようと思った。あれゲームが今手持ちにないじゃん!小学生僕は、A君ママにゲームを持ってきてくれとお願いした。ようはパシリだよ。駐車場までわざわざゲームを持ってきれくれと要求したわけだ。どんな口調だったかは覚えてない。わがままなことだよね。確か、成長してからA君ママにその時の感想を言われておれは思い出したくらいだ。A君ママは、なんだこいつ?めんどくさ、そう思ったと言っていた。そらそうだ。お金まで出してもらって、パシらされる。どんな人だっていい気分はしないだろう。俺はきちんとお礼の感謝をしただろうか?

 

ゲームを持ってきていただいた。いや本当にありがとうございます。よって当初の目的の通信対戦は始まった。チートしてずるしたデータを使っているんだから負けるはずがない。しかし勝負は非情なのだ。レベル1の珍しいポケモンを出したり。ステータスが上限値のポケモンを出したりやりたい放題をした。ずるして勝つ優越感は気持ちいいか?えぇ、正直気持ちよかったですね...。弱いものいじめは在る種の快感を齎す。A君とA君のママ。Kさんにはほんとに頭が上がらない。ありがとうございます。

 
富士急ハイランド

他にもA君一家には、富士急ハイランドにも連れてもらったりした。彼らには本当にいろんなところに連れて行ってもらったんだ。小学生でそこそこ記憶が残っているからだろうか?間違いなく多くのものを与えてもらった。


逆に家族旅行に行った記憶はほとんどないんだ。母の里帰りに、中国に付き合ったり、那須高原とか行ったらしいけど。家族全員での旅行は本当に珍しいことだった。
A君とは、それこそ温泉に何度連れて行ってもらったことか。マザー牧場だったり。様々な場所に連れて行ってもらった。本当に感謝している。家族にも実際に連れて行ってもらったことはある。忘れている僕が薄情なだけか。中国の上海は母の故郷だ。何回か連れて行ってもらって、美味しいご飯を食べた。どうしてこんなに記憶が薄いんだろう。

 

A君とよく遊んでいる友人たちで、温泉に連れて行ってもらった。木村牛乳という牛乳が売っていた。温泉によくあるビン牛乳の自販機だ。そのときは5,6年生だったか?お互いを悪口のニックネームで呼ぶことが流行っていた。ハゲとか、横ハゲとか、デブとか。僕は木村牛乳と呼ばれていた。同じクラスの木村さんが好きだったことに由来する。その原因がこの牛乳だ。好きな人の名前がついた牛乳だ。どうなるか?そら、なぁ?前述の通りよ。ニックネームが決まった瞬間だった。そのニックネームは、相手が一度言ったら、言われた人も同じ回数悪口を言う事ができるシステムだった。自然とそんなシステムが出来上がった。ハゲと100回言ったら、俺は代わりに木村牛乳と100回呼ばれるわけだ。無法地帯だから、もう好きなだけ言い合ってたけどな。ちなみに木村牛乳の正式名称は、木村パスチャライズだった。もう生産終了してしまったらしい。ポケモンの名前といい、英単語や専門用語はなかんか覚えられないのに、子供のときの記憶力はすごい。

 


チェーンのケンカ

小学生のことの主な移動手段は徒歩か自転車だ。自転車には鍵がいる。チェーンのタイプだったり、自転車に付属している鉄の棒を車輪に差し込むタイプだったり。ある日僕の家の近くで珍しく遊んでいた。
ごっこかなんかしてたのかなぁ。理由は深く思い出せない。ケンカになった。6人ぐらいの子供達が見事に3対3の2つの陣営に分かれた。お互いをまるで憎悪するような雰囲気だった。
だれだったか、自転車のチェーンを振り回し始めた。冷静に考えて危ないわな。いくら子供といえで、鉄の鎖だ。ぶんぶん振り回せば遠心力で加速していく。頭にでも当たれば気絶はまぬがれない。一触即発だ。
安心なことに、衝突はせず、お互いケンカ別れをするようにその日は別れた。次の日には、仲直りしたんだっけ?なんであんなケンカになったんだが。

 

ご飯粒をキレイに食べる

A君の家は父親が死んでしまっていた。別の男性がA君の父親代わりに住んでいた。その人は競輪選手でめちゃめちゃ太ももがぶっとかった。小学生の胴体ぐらいは太かったね。競輪選手は何十回も骨折する。筋トレをして、鍛えていくと自然と太ももがぶっとくなっていくと笑っていた。Kっちゃん。伏せられてないな。みんなが愛称で読んでいた。ゴリラのようにでかくごつい見た目だったが、優しい人であった。


彼から教わった1つの教訓が在る。ご飯粒をキレイに食べろ、だ。どこかに旅行に連れて行ってもらったり、食事によく連れて行ってもらっていた僕だ。もちろん食事をすればいろんな癖や礼儀、マナーがある。
A君の一家はイタズラ好きでおおらかな人たちであった。巷に蔓延るうさんくさいマナー講師のような、ふざけた礼儀を要求はしなかった。しかし彼らには人としての最低限の礼儀を教えてもらった。


Kっちゃんは、ご飯粒を残すなだった。農家が一生懸命作って、巡り巡って俺たちの口に入り。オレたちに肉体を作ってくれる。俺たちは農家さんに生かされているんだ。そう言っていた。スポーツ選手なりの食事への感謝の示し方もあったろう。彼はいただきます、とごちそうさまも必ず言う人だった気がする。ゆえに彼はご飯粒だけは、自分でも残さなかった。

 

バイキングでも、定食でもそうだ。自分に与えられた食事を、食べられるだけ取る。もちろん限界は存在する。彼は決して無理強いはしなかった。しかし、ご飯粒を残さずお椀をキレイにすると彼はいつも褒めてくれたのだ。今でも、ご飯粒は食べられるだけ取るように心がけている。残してしまうこともある。捨ててしまったことがないとは言わない。それでも、罪悪感とともに彼の言葉蘇ってくるのだ。残さずキレイにしよう食べきろうと頭に彼の言葉が蘇る。


感謝の言葉を学ぶ。挨拶を学ぶ

こんにちは。ありがとう。ごめんなさい。最も身近な言葉。日常で使わったことがな人はいないだろう。些細な日常の一言だからこそ意味が宿る。この言葉を誰に教わったか、誰のおかげで自分の中に根付いたか覚えているだろうか?


私の場合は、A君の母親だった。彼女は、本当に優しく強い女性だった。いたずら好きの面白い人だ。彼女に怒られたことが何回かあるはずだ。僕は常識知らずの奇妙な子供だった。
あいさつ。そして感謝と謝罪だ。


僕の家では、挨拶は日常的ではなかった。日常には在るが、自発的な理解を示していなかった。感謝も謝罪も。強要される儀式のような意味合いを強く感じていた。親に何かを与えてもらったら、儀式のように感謝を返納する。いつどんなときに、感謝をすべきかを理解していなかった。謝罪もそうだ。親に教育と称され怒られる。その結果、謝罪の言葉を口にする。決まり決まった典型である。親は何か間違いを犯しても彼らは基本的に謝らなかった。僕は親から感謝と謝罪を要求はされたが、見本として親から学習することはなかったのだ。


ある日A君の母は僕に言った。人に何かをしてもらったら、ありがとう、と言いなさい。僕の目をみながらそう諭した。何か過ちを犯して、悪いことを人にしてしまった。そうしたら、ごめんなさい、と謝りなさいと諭した。人に出会ったら、初対面の人でも知人でも「こんにちは」と挨拶をしなさい。それがお互いが気持ちよくなるためのコツだ。そう僕は目をそらそうとしたが、彼女は僕の目追いかけ、じっと見ながらそう言った。


そのとき僕はA君のママに何かをしてもらったんだと思う。そして感謝をしなかった。それは、お互いの関係にヒビをいれることだ。信頼関係を崩すことだ。だから些細な一言だが、感謝を述べなさいと初めて私は理解したのだった。彼女は僕を叱ったのだ。


私は傍若無人でわがままだった。A君の家にはまるで、A君家の子供であるかのように入り浸っていた。24時間営業だ。朝早くから夜は遅くまで。7/11のセブンイレブン。彼らが寝てるところに、遊びに着た!とインターホンに叩き起こされたこともあろう。迷惑だったろう。嫌われていたかも知れない。それでもA君とA君の母親は、辛抱強く優しくかった。友人といえど、彼らは赤の他人だ。私はどれだけのことを与えられたろう?私はどれだけのことを返したろう?A君の母親に出会わなければ、こんにちはの挨拶もしない。ありがとうの感謝も知らない。ごめんなさいの謝罪も理解できない人間になっていたかも知れない。


自らの親へも同じことかも知れない。いいことだけじゃない、悪いことも会ったろう。ただ与えられて私は生きてきた。これは口先だけの感謝だ。しかし、私は確かに人に生かされている。

 

 

 

 

回想録 小学生編13

 


正月1月1日

新年がきてしまった。2020年だ。喜べ5分の1世紀だぞ。20年前は5歳か。随分と遠回りした。時間を無為に使った気がする。必要な遠回りだったのか?今でも寄り道中だ。
オリンピックも今年か。批判もたくさんあろうが、なんとかなればいい。他人事だ。オリンピックとのつながりはテレビくらいだ。テレビそんなに見ないのだ。


今さっき日課の散歩のついでに、近くの神社?寺?違いがわからない。神道か仏教かで違うのは分かる。鳥居があれば神社らしいけど、鳥居あったっけ?寂れた神社だ。
苔と木で覆われている。昼間であっても日差しは射さない。地面の土は黒々と湿っている。裏口の鎖を超えて入った。猫の鈴をでかくしたみたいな鐘と賽銭箱が置いてある。500円でくじが引けるようだが、あいにくお賽銭用の小銭すら持ってない。
お賽銭もろくに入れないんだから、お作法も知らない。鐘を一回だけ鳴らすつもりが、勢い余って二回三回と鳴り響いた。柏手は打たなかった。手のひらと手のひらを合わせた。


神道では神様に祈り願いを叶えてもらうのではない。神様に自らが願うことの為に精進することを、見守ってください。そうお願いする場なのだと聞いた。朝起きるときの頭の痛み。不安定な鬱っぽさ。新しい機会への出会い。この3つを見守ってもらうことにした。最初に浮かんだのは、今日の朝起きた時のどうにも耐え難い眠気だった。12時辺りには自然に目覚める。それより前に起きようとすると早くに寝ようとも起きづらい。寝起きが最初に浮かんだってことは、一番大事なんだろう。なんとかするから見守ってくれよな。

 

正月の朝になると、お雑煮、タコ、まぐろ、黒豆、かまぼこ、甘い卵焼き。こいつらはほぼ必ず食べる。他には、みかんだったり、野菜だったり。お雑煮にはほぼ豚汁だな。餅は焼いたものを放り込む。壊れかけのトースターで焼く。やたら時間がかかる。
いい思い出も悪い思い出もあろうな。いい思い出をいうなら、やはり飯は美味しい。刺し身はいつ食べても美味しい。悪い思い出といえば、一家団らんをするとは言え、すぐに険悪な雰囲気になるところか。
お年玉ももらってはそのまま懐で守りきれることもあれば、正月早々親と口論になって取り上げられることもある。苦いね。とりあえず寝起きの頭でろくに会話せず、黙っていればなんとかなる。


初詣は家族で行かない。姉は友人とよく行っていたろう。私は家で一人こもっている方が多かった。友達の家に遊びに行こうにも、正月くらいは団欒しているだろうと空気を読まざるえなかった。それに正月は寒い。布団でずっとぬくぬくしたい。正月気分も午前くらいまでだ。午後にもなればいつもの日常とも変わらない。この回想録も、「あけましておめでとうございます」の一言でサボろうとした。時間のつながりで見るなら、正月も所詮は一日にすぎない、と書くことにした。親族全員で集まることも家はしなかった。


正月は一年に1回のご飯を食べる日。そんな印象が強い。お年玉も高校生辺りからもらわなくなった。振り返ってみれば、正月なのにろくなイベントしてないな。内向的過ぎる?

 

一度ニューヨークで歳を越したことがある。ニューヨークの新年はクリスマスボウルといって、街全体でお祭り騒ぎだ。市民全員がまるでカウントダウンしているかのような一大イベントになる。やっぱりアメリカ人はパーティが好きだね。小学校、中学校あたりからパーティって文化がある。騒ぐと言うより、友人や知り合いと楽しむ場所。そんなニューヨークでもPCに向かいながら惰眠を貪っていたね。慢性的な鬱なのか?

 

道路床のタイル

床のタイル模様は好きだろうか。扇形だったり、良くわからない形に組み合わさっていたり。地面は様々な模様と形にあふれている。道路は白線が引かれている。経年劣化でところどころ白線が剥げたり。また新しく白線がひかれ直したり。色と形は遊ぶに持っていいだ。

 

白色の地面だけを踏んで帰る遊びなんて懐かしい。小学生のいいところは、ルールを臨機応変に変えることだ。最初は白線のみ踏むことができるルールとする。歩道橋や、大きな道路が目の前にまたがっているとゲームへの勝利は無理だ。そうなったら、緊急会議。ルールを追加したり横道や例外を作る。白がないときは、黄色だけはOK!とか。教科書を道端にばらまいてその上を踏むとか。最終手段は、学校から持ち帰った給食の白衣袋を踏みつけて、白の飛び石を作るとか。大事なのはルールを守ることよりも、自らの作ったゲームに勝つ可能性をもたせることだった。簡単すぎるなら、新しい制限を加えることもある。逆に今行ったように、難しすぎたらルールを緩めてより楽しめるように遊ぶ。

 

バケツにゴミを投げ入れる時、もし1回で入ったらテストの点数が100点に違いないと願う遊び。あるいは告白に成功する。あれ、告白したことないな…?ベタベタのべたか。1回で入ることもあるが、たいてい外す。別にいいのだ。拾ってそばのゴミ箱にいれるなんてもったいないことはしない。わざわざ最初の場所より少し離れてまた願い、投げる。もし次に入ったら、最初の失敗は取り消しだと新ルール追加。入るまで続ければいつか勝つのだ。

 

試行回数とルールを変えることで、遊びを楽しめること。自分が喜べるほうがいい。今じゃ生真面目に、ルールは守らなくちゃならないなんて頭でっかちだ。唐変木。子供のほうがずっーと楽しみかたを理解している。勝てる可能性があるゲームを自ら作る。難易度をそのつど調整する。ゴールは自分の家だったり、目的地だったり。気まぐれで猫みたいだ。

 

姉とPC

いまだにEメールが残っていることにいささかびっくりしている。姉がPCを買ってもらった。キーボードをカタカタと打って何をしているのかと思えば、どうやらメールを打っているらしい。誰かとPCメールでやりとりをする。友達とPCのメールで会話する。LineやメッセージやSNSある今の時代でいったら、文通みたいな骨董手段だろう。だって友人とだぜ?毎日遅くまでADSL回線の網を使って、友達と会話をする。親にバレずに自分一人だけの空間を彼女は喜んでいたのかも。

 

正月に屋根裏を整理していたら、姉が学校で友人たちとやり取りしていたであろう手紙が山ほど出てきた。姉の思い出ゆえ捨てるわけに行かない。そのまま放置を決めた。姉に連絡しても、姉が持っていくことはないだろう。捨てられない思い出だが、決して思い出されてない朽ちていく記憶なのだ。僕の回想録も憎しみ恨み辛み呪詛や鬱っぽさで作られている。やがては時間の流れに押し流されていくのだろう。そう願う。

 

 

 

少し鬱っぽいな。

回想録 小学生編12

 


感想文

夏休みの宿題には、読書感想文がある。作文用紙数枚にかけて自分の読んだ本の感想を書く。自分の感情だったり、本の流れにそってどうして登場人物がこんなことをしたのかだったり。もし自分だったらどうするか?を面白おかしく書く。嘘日記みたいなもんだ。


いつだったか、神様のいないなんたら、そんな本の感想文を書いた。孤児だった女の子、それを助ける友達の少女。子供ころは親が何でもしてくれるけど、成長するにつれて自らで手に入れる必要がある。子供と大人の変化に関する気づきを与える本であった。内容は大事だけど、今回はあまり内容の話ではない。感想文への導入だ。図書館は家の煩わしさがなくなる。静かにただ物語に没頭できる穏やかな時間であった。題材の本も図書館でたくさん読んだうちの1冊にすぎない。


私は本を読むのは、好きである。字はお世辞を盛りに盛って味のある字だね。かろうじて褒められる。自分くらいは褒めてあげよう。作文を居間のでかい机で書く。母親がやってきて、小学生にたいしていちゃもんをつける。字が汚い、とか。もっと上手にかけないの、とか。なんだぁこいつ?彼女らに褒められたことがない気がする。唯一算数を褒められたことはある。将来公認会計士になれるね、と拒否権のない夢をプレゼントされた。字をうまく書く方法を享受されたことはないね。

 

僕の字が読みにくい理由はわかっている。速く書く。文字の線同士が切り離されていない。続け文字になっている。速く書いて、自分だけが読むのには大変分かりやすい。人に読ませるのには向いてないだろう。昔からメモ魔であった、自分だけ読めればいいそう思っていた。


ただ、最近はどうにも自分の書いた字も読めないことがある。脳みそくん?パソコンのきれいなフォントに慣れすぎたせいか。自分の字の汚さを再認識するとね。

 

いつだったか、学校の宿題が出た。一日の日記を書いてみて先生に提出するだったかな。
私は見事に忘れていた。寝る直前だった。布団に入って寝る準備万端。母親に叩き起こされる。親に渡したプリントに混じっていたらしい。プリント渡すなんてのも懐かしいなぁ。今はもうスマホあたりに自動送信されてるの?


僕の時代には、紙とインク代の節約のためとかいってざらざらのわら半紙に印刷されていた。ぺらぺらで、ランドセルに押し込めばすぐに潰れてぐしゃぐしゃになる。大事な書類だけは、A4のきれいな紙で手渡された。

閑話休題

日記なんて言われても、自分がすでに眠い。私自身、こういった書物でいい評価をとった記憶もなかった。ならば、とりあえず適当にでっち上げて眠ろうと書き始めた。
先生に提出し、返ってきた評価は花丸だった。なぞ。内容も覚えておらんかったから、読み返してみた。
「とても眠いです。親に渡したプリントに宿題がまざったせいで、叩き起こされてうとうとしながら書いている。」とはじまる。あとは日頃の親への恨み辛みが永遠と400字詰め作文用紙を読めていた。これが花丸なのか。先生は昼ドラが多分好きなのでしょうね。

 

3,4年のときはスイミングスクールなら、5,6年のときは塾に通わされた。市進だ。教育(笑)ママは私自身求めてもいないのに、塾に放り込むことを決めたようだ。
自分から勉強する気もないのに、塾に行かされれば勉強すると思ってたのだろうか?目出度い脳みそしてやがるぜ。そもそもなんで行かされているのかも理解してなかった。母は俺を受験させたかったらしい。


母は人から影響されやすい。母は中国人の友達がいた。かの家族はみんな中国人。S君と言う、僕より1歳年上の男の子がいた。エリート一家だね。S君も今はアメリカ在住で、なんかすごいことしてるらしい。


母は彼らが受験すると聞いて、僕にも受験させることを決めた。安易だねぇ。今の持論だけど、日本において小学生受験の意味はあまりないと思う。仮に受験させるんだったら、小中高大レベルまでの学費を払える財産。慶応、早稲田、学習院あたりじゃないとまるで意味がない。そこらへんの底辺私立の小学校に行ったところで、その先のプランなんぞまったく考えてなかっただろう。


塾に生かされることで、睡眠時間は減った。もともとやる気もない宿の宿題が、学校の宿題以外に増えたからだ。遊ぶ時間ももちろん減った。塾でも、ケンカばかりしてたな。塾の宿題を終わらせないと、母は俺を叩き起こし、終わるまで寝かせない。おかげで勉強はすぐに嫌いになった。この方法で勉強を好きになる人がいたら教えて下さい。世界の教育方法をみれば違うってすぐ分かる。自分より頭のいい人なんて無限にいる。上には上がいる。そのトップと常に比べられて、ダメ出しされる。褒められることもない。甘えてる?そうは思わないな。


受験自体も失敗した。ろくに勉強してないんだから。宿題もでっちあげの数字をただ埋めるだけ。2つほど受験してどっちも落ちた。俺は喜んだ。公立の中学校に通えるようになったからだ。はーっはー、最高だぜ。
ちなみにこちらから頼んで分けでもなく、強制的に通わされたにもかかわらず感謝を強要された。馬鹿なのかな?お金をドブに捨てたと言ってくる。これずーっと言い続けるからね。知るか。


鉛筆とシャープペン

小学校のルールなのか、シャープペンは許可されていなかった。鉛筆オンリー。シャープペンを使うと注意される。理由はなんだっけ?とんでもない屁理屈だった気がする。学校はそんな変なルールが多かった。
全員が全員同じような平均を目指すことを強要される。異常値のぼくなんかは、端から切り捨てられていた。学校はそんな場所だ。青空教室ではない。


ロケットペンシルという、鉛筆ともシャープペンとも言い切れない文房具があった。先端を取り外せて、お尻に指すことで新しい先端が生えてくる。分離した鉛筆の先端の集合体。没収されてたね。
シャープペンも、ボールペンも分解して遊ぶことができるから。あぁこんな理由だった。分解できるとダメらしい。僕は鉛筆の芯をくり抜いて分解してたけどね。


ランドセルを卒業した人

身長が伸びて体格が大きく成長する年齢になると、ランドセルが使えなくなる人達がいる。特に女子で身長が160cmを超えている人は、その傾向が多かった。精神的な成熟で、ランドセルが子供っぽく見えはじめるって理由のが割合強かったと思うがね。ランドセルはかっこよくはないわな。ハリウッドスターの間で一時期流行ったらしいけど、宣伝だと勝手に決めつけている。あんなでかくて重いのを日常使いするなんて狂気を感じるよ。
彼らは中学校で使うようなスクールバックを使っていた。肩にかけることができる。ランドセル組の僕としては、卒業までは縁がないと思いつつ少しの憧れがあった。


本の分間でテトリス

テトリスと初めて会ったのはいつだろうか。DSのテトリスは対戦ができる。対戦ができるゲームってのはやはり熱いね。DSという子供も今では死語か。画面が上下2つあり下の画面はタッチすることで反応が帰ってくる。
テトリスはシンプルであるからこそ、無限に永遠とできる。やりすぎて頭の中でもテトリスをしていた。ブロックが無限に落ちてきて、テトリスを決める。そのときはTスピンの存在をしらなかった。Tスピンは最強の技なんだけどね。
本を読んでると行間があいたり、段落の隙間があく。そのスキマにすらテトリスのブロックが振ってくる。今でも紙の本を読んでいると落ちてくる。集中が途切れてたときはね。

 

回想録 小学生編11

 はじめに

気分が落ち込むと、声も出にくくなるな

 


トランプと大富豪

トランプはお好きだろうか?友達がいようといまいと、誰もが楽しいゲームを見いだせる素晴らしい発明だ。お一人様なら自分の未来を占うのもいい。一人大富豪で多重人格の練習もした。スピードで最速タイムを刻むのもよかろう。いつかカジノで勝てるように、ブラックジャックの練習をするのもいい。トランプとは誰だって友達だ。

 

学校に初めてトランプを持ってきたのは、巨人のM君だったか。雨の日になると、校庭で遊べないからなにか遊びを持ってこようと誰かが提案した。トランプや、UNO、花札が集まり。トランプがメジャーになった。トランプは、教室全体で流行り始めた。学校に何も持ってきては行けないのか?問題の始まりはそこだ。エロ本はダメだ。ゲーム、だめだ。学校は学ぶ場だからゲームはふさわしくないと言われる。取り上げられた。カードゲーム、遊戯王などはダメであった。誰もが隠れるようにプレイしていた。バレたら反省文。あるいは親の召喚。じゃあ、トランプは?

 

先生たちの間でも微妙であったろう。授業中にトランプで遊べるわけでもない。また、雨の日に校庭で走り回れない。廊下で野球やサッカーをされて、窓ガラスを割られるのも困る。廊下は走ったり、暴れたりも辞めてほしい。そんな心境からか、紆余曲折でトランプで遊べるようになった。

 

人数が多いと、トランプの幅は広がる。ババ抜き、七並べ。誰もが知ってる遊びだ。その中で私達が熱中したのは大富豪だった。大富豪のルールは、ローカルありありのなんでもありだった。都落ちもあり。都落ちとは、1位になった人が次のゲームで1位になれなかった場合、自動的に最下位に落ちる仕組みだ。ゲームの始まる前に、前回のゲームで最下位だった人は、1位だった人間に強いカードを2枚奪われる。最下位は代わりに1位のいらないカードを2枚受け取る。最初のゲーム以降は、常に不公平なゲームである。だからこそ面白かった。

 

1位が圧倒的な力でゲームを連勝し続けることもある。もちろん恨みを買う。なんとしても、ひきずりおとそうと団結する。お互いのカードを晒すのはアウトだ。ずるはダメ。団結が上手くいくこともあれば、裏切り者が出ることもある。実力と、何をいつ出すかはもちろんのこと。駆け引きと、運の要素も大事だった。場に出たカードから、誰が何を持っているかまで推測もする。そこまでやっても革命でどんでん返し。プランがぱぁになることもある。トランプの中で最も好きな遊びだ。女の子も男の子も好きなだけ参加できたしね。人数が多すぎると、大富豪の魅力は少し薄れてしまうのが難点だ。複数枚同時出し、階段、色縛り、数字ごとの追加効果など、戦略の要が薄れてしまうか。


大乱闘

大乱闘は大乱闘でも、ケンカではない。まてよ、ケンカの話でもいいかも知れない。殴り合い、引っ張りあいは学校のどこかで毎日のように起きていた。起こすこともあった。どれも他愛のない理由だった。だれかのいたずらしたら、ひどいしっぺ返しを食らっただけとか。どっちが強いか張り合ったりとか。僕は体が小さいが、狂犬だった。恐怖のネジがぶっ壊れていたから、ケンカをあまり売られなかった。噛み付いてくるわ、金的への攻撃を躊躇わないわ。勝てば官軍なのだ。例え相手を僕が打ち負かしても、なぜか涙が出てくる泣き虫だった。打算かも。泣けばたいてい有耶無耶になる。先生もめんどくさがる。


大乱闘スマッシュブラザーズ。初めての大乱闘はニンテンドー64であった。ほとんどを一人プレイで過ごした。家に友達を呼びたくなかったんだ。なんでわざわざ友達が来てから、母に64を隠し場所から出してもらわなならん?それに実際に出してもらえるかも母の機嫌による。それはとても嫌なことだった。頼んでも出してもらえるかは運だ。それに母が友達にいらん質問をするのが本当に嫌だった。親は何の仕事をしているの?今でも嫌な質問の1つだ。

 

家に呼ばない他の理由には、嘘をつきまくって我が家がとんでもない動物園になってたのもある。家にはライオンや象やキリンがいるとか。どこの石油王だ。呼べばバレるわな。こんな意味もない嘘をよくついていた。低学年特有の見栄っ張りだ。

 

3,4年生あたりだったか。任天堂から満を持して、ゲームキューブという傑作ハードが発売される。このコントローラーはいまだに持っている。頑丈だし、使いやすい。思い出である。今でも世界中でも愛されているコントローラーらしいよ。大乱闘スマッシュブラザーズDXが満を持して登場。ただ僕は持っていなかった。買ってもらえなかったからね。

 

やがて疎遠になる近くのO君や、おもちゃ箱ことA君家に遊びに行っては一日中対戦をしたものだ。やたらうまかった。自分でもなぜそんなにうまかったのかわからない。周りが下手なだけだったのかも知れない。圧倒的な差があった。チーム戦で僕1人vs友達3人でもボコボコにするくらいの力量差があった。以下にして相手をなぶり殺すかだけを考えていた。常に1位だ。

 

あんなにハマったゲームは他にないかも知れない。ほぼ全てのキャラをほぼ十全にあつ仕えるような気持ちだった。高難度コンテンツも当然クリアした。マリオパーティは難易度ノーマルにすら勝てなかったのに不思議なもんだ。大乱闘スマッシュブラザーズDXほど適正を示したゲームには出会ったことがない。強いて言えばテトリスかな。

 

家から締め出される

門限があった。5時だったか。門限を過ぎると家の鍵を閉められる。家には入れなくなる。インターホンをいくら押しても、ドアをばんばか叩いても反応は帰ってこない。近所迷惑この上ない騒音が響き渡る。何回あったかわからないほど締め出された。

 

遊びに集中し始めると時間なんてものを気にする注意力なんてない。ゾーンに入っているのだ。僕自身も学ばない。何度閉めだされても、門限を守ることは少なかった。 もっと遊びたい。もっとだ。

 

初めて閉めだされた日のことはいつだったか。泣きじゃくって、ドアを叩いてあやまりまくったろう。開けてくれなかったけどね。母の頭のねじは、人を害することに喜びを感じているんじゃないかと思う。俺が頑丈で良かったな。やがてこっちとしても、あ、これ門限に絶対間に合わないな。そうわかったら、飯抜きにされて鍵をかけらるんだから、もう帰らなくていいや。そういう思考にシフトしていく。友人の家に遅くまで入り浸ることになる。友達の家によっては、夕飯をごちそうになることもあった。ありがとうございます。素晴らしい、最高である。おもちゃ箱のA君家でなんど夕食をごちそうになったかわからない。もはやA君の家にずっといればいいんじゃね?とか本気で考えていた。最も寝るために、明日の学校のためには家に帰らなくてはならない。

 

帰途にたち、家についた。インターホンを押してもだれも反応しない。ドアも開かない。頭おかしいやつしか住んでないな?まだ起きてるだろ。夜7時か8時だぞ。姉も反抗して締め出されていたことがある。助けなかったしっぺ返しか…。何回か助けたけどね。

 

母は締め出せば、門限を守るようになると考えてたから本気で何も考えてない。事実を観察して、対策を変更するならまだしも、罰を与えることが目的なっちゃおしまいだよね。教育だから何をしても許されると本気考える人間だ。ナチスの才能がある。思い込みの強さ。

 

やがて締め出されてからは、この一見不可能そうな難題をいかに解くか、と遊びはじめる。1つ目は、1階にある父の部屋の鍵を予め開けておく。そうすれば庭のフェンスを超えて家に入ることができる。もっともこれは直ぐにバレて対策を取られた。2つ目は、2階の父の部屋の鍵を開けておく。庭には倉庫があり、倉庫の屋根を伝って、2回のベランダに登る。大成功。やはりバレて鍵を閉められる。この2階のベランダから、家に侵入する経路は父もやったことがある。母と父がひどいケンカをして、母が父がかえってくる前に鍵を閉めた。父は締め出された。ケンカは日常茶飯事だったけど、彼が締め出さしたのは少ないね。

 

玄関の鍵は3つある。2つは鍵で開けることができるけど、残りの1つは家の内部からしかかけることできず、外からの解除は一見不可能だ。まぁ、僕は解除したけど。それが3つ目だ。3つ目は、靴の紐を使ったロックの解除だ。古い家だと、割と悪用できる。

 

僕と姉は鍵っ子だった。小学校に入ってからは、両親ともに働いていたから3時頃に家に帰っても、いつも一人だ。家にランドセルをおいて、すぐ家を出る。家にはどこどこの家に行ってくるとメモをおいて。門限をぶっちぎり、3つの鍵を閉められる。2つは鍵で開けられても。U字ロックの内鍵だけは家鍵じゃどうしようもならない。父の部屋の鍵もしまってる。困ったなぁ。外寒いし。そろそろ入りたい。冬だろうと容赦なかったからね。

 

内鍵の仕組みを考える。こいつさえ抜ければフリーパスなんだ。この内鍵を何とか横に倒せればいいわけだ。出っ張りに引っかからなくなる。どうやって横に倒すか考えれば扉は開くわけだ。!。内鍵に紐かなんかを縛りつける。ドアを閉める。つけた紐を引っ張れば横に倒れてくれるんじゃないかと思いついた。紐、ひも…、あぁ靴紐がある。試す。数分後、案外簡単に仕事は終わった。かじかむ手で内鍵の先端部分に紐を上手く縛ること。これだけが難点だった。縛ったあとはドアを閉め、強く引っ張るだけ。こうして、母の無駄な外への締め出し文化は科学と知性に敗北する。ばっかねー。

 

A君の帰還

おもちゃ箱のA君。2年生辺りで転校してしまった。そのA君はどうやら帰ってきた。いやー、目出度い。再会を機に彼の家には狂ったように遊びに行くことになる。母は僕にA君を紹介したけど、A君の家が私にとって悪影響をもたらすとやがて考えるようになる。ゲームは人を馬鹿にするやら。友達を選べやら。A君と遊ぶなと何度言われたことか。知らんでか。自分の友人くらいは自分で選ばせてくれや。家では操り人形であったから、その程度の反抗心は持っていた。

 

なかよしグループ

学校には週一度か、月に一度か。仲良しグループなる遊びの時間があった。各学年から一人か二人ずつ集めて、グループを作る。その中で何か遊ばせる仕組みだ。自分が高学年のときにリーダーとして動く必要があったんだけど、やったことがあったっけ…。やらないはずないけどな。記憶にないってことはサボってる可能性もある。学校のどっかでぐーすか寝てたかもしれない。

 

スイミングスクール

3,4年生のころは喘息がひどかった。父は喘息への対策として、スイミングスクールに通わせるようになった。楽しかった。体を動かすことは好きだ。スクールはセントラルという名前だ。

 

セントラルはテストに合格するとバッジを貰える。そのバッジをみなが自分のかばんにつけることが推奨されていた。かばんを見ればどのくらい泳げるかわかる仕組みだ。一番上は群青色にサメだったかな?そのレベルはかなり少なかった。たまに見るとすげー!と尊敬の眼差し。

 

最初の難易度は水に入るからはじまる。水に潜るレベルの黄色バッジ。バタ足、クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ。そして総合タイムトライアルの順番に難易度が上がっていく。僕はバタフライコースを超えたけど、タイムトライアルコースに入る前に辞めてしまった。一通り泳げるようになったし、喘息は治った。なぜ辞めたのかは覚えてない。金の事情か?飽きたか?

 

一番好きな泳ぎは平泳ぎだ。疲れずに長くのんびり泳げるところが気に入っている。逆にバタフライは苦手だな。まるで溺れているかのようにジタバタするし、疲れる。のんびりさせてくれ。

 

ある日のこと、突然バク宙がしたくなった。テレビかなんかに影響されたのだろう。プールは絶好の場所だ。頭から落ちても水だから、そんなに危なくないはず。少年は突如プールサイドにたった。ジャンプする。頭のイメージ通りに体を後ろにひねる。頭を下に向ける。プールサイドに激突。死ぬほど痛かった。

 

初めてで上手くいくはずもなく、痛む頭を抱えうごごごごとうずくまった。こういった衝動に身を任せた行動と迷いのなさはどこにいってしまったんだろうか。楽観主義が減り、悲観主義が表に強く出ている。バク宙ができるようになったのは、高校生だったな。暇すぎて練習した。

 

プールが終わると、大体父が迎えに来てくれていた気がする。母のときもある。練習帰りに自販機で食べるセブンティーンアイスの巨峰味がいっつも楽しみだった。バニラ&ソーダや季節限定味に浮気しながら、結局巨峰味に戻るのだ。あの頃は110円だった。いまは160円?物価はやっぱり上がってる。給料はあまり上がってないし、むしろ下がってるみたいだ。

 

セブンティーンアイスの苦い思い出がある。外側の紙を向いたら、表面の硬い紙だけが剥がれて、内側の薄い紙がアイスに張り付いたままだ。食べられそうにない、ショックだったなぁ。かぶりついてもザラザラした紙の味。頑張って剥がそうにも剥がれない。悲し出来事だった。

 

 

 

 

はじめに

風がそよぐ。そよぐは、漢字で、戦ぐ。雰囲気台無しやな。誰が使うねん?印象と漢字でこんなに逆行するのもないやろ。英語のNiceは昔、悪口だったんだってくらい驚いた。
ひたむき、は直向き。分からんでもない。ただ形容詞はひらがなのが好きだ。柔らかさがある。
挙って、は”こぞって”と読む。漢字でこぞってと書いてあるの見たことないわい。
どなた?は何方。読めなかった。常用漢字の音訓読みなんて無力じゃんね。

 


校外学習

小学校のメインイベントってなんだ?メインと言えないが、各学年ごとに校外学習など特有の行事がある。林間学校と修学旅行すら、どこに言ったかうろおぼえであるけど。
低学年では、川越に行った気がする。4年生あたりでは筑波山に登ったな。標高800mくらいの山。ハイキングに行った。歩いていることで、弁当が片面によるのが困りもんだ。母の弁当は、おかずや野菜から漏れ出す液体でご飯がべちょべちょだった。ご飯、分けてほしかったな。

話題になるかと思ったけど、ポンコツ灰白質でダメそうだコレ。


稲荷大社で1人RUNではなく日光東照宮

小学校の修学旅行だっけなぁ…。京都に行ったんだけど、京都は中学なはず。高校はお琴羽だった。関東近辺はそんなもんだろ。鹿児島あたりの高校だとディズニーランドに修学旅行で行くらしいね。すると、京都の稲荷大社ランは中学校だ。
調べると小学校の修学旅行は日光東照宮だったらしい。まじで?記憶にない。どんだけつまらなかったんだ。な、鳴龍。天井に龍がいるよね。猿三兄弟!終わり。


都市伝説で、徳川家康の墓をほると金塊や隠し財宝がでてくるって話。国宝文化財だから、容易には掘ることができないとバスガイドさんは行っていた。逆に掘って確かめるほうが、歴史的に大事なのでは?
小学校の時に5年生は林間学校があるはずだけど、文字通りなんの記憶も残ってないな…。小学生だからあまり遠くには行っていないはずだから。そこらへんの自然公園とかだろ。

 

 

Fさん

3,4年生の頃に女の子の転校生がきた。Fさん。頭がすげーよかった。何の因果か次の席替えで隣になった。中学校でも同じクラスになったことがある。不思議な縁だ。小学生だったか、彼女にはなんでか告白されたことがあった。恋愛を知らず、恋人という言葉に得体のしれないものを感じて、断ってしまった。なんでだ、少年よ…。残念だが、君の未来は彼女いない歴=年齢なんだぞ。モテ期というものがあるのなら、小学校と中学校でおそらく終わってしまったろう。


マンション組

マンション組と知り合ってからはマンションの真下にある公園で遊ぶようになった。市営ではなく、おそらくマンションが管理している公園があった。マンションの駐車場と地続きであり、公園自体も狭くはない。遊具も結構充実した素晴らしい公園だった。デブのC君、のっぽのM君、でこのA君あたりとは公園でよく走り回った。カードゲームをしたり、なんやり。

 

いつだったかその公園でとある幼い少年がきた。彼はベンチに立つと当然ズボンも脱がず小便をもらしてベンチを水浸しにした。終始真顔であったらしい。見知らぬ子が漏らしたベンチにいいから、いいから、と座らせられてから話を聞いた。もちろん飛びかかってやった。
ベンチは呪われた曰くになった。座ることが罰ゲームであるかのような電気椅子。だれかがわざとベンチを触り、別の誰かにタッチする。少年はそれだけで鬼ごっこを永遠を楽しめる。


病原体鬼ごっこ

思い返してみればいじめだ。少なくとも今現在の世論ではいじめとみなされる。小学生は残酷で素直だ。異端者を攻撃することをいとわない。標的を徹底的に弄ぶ。
ブサイクとけなしたり。バーカといったり。その程度はまた軽微かもしれない。特にいじめていい、そう共通理解が生まれてしまうと永遠とエスカレートしていく。物を隠し、ドロップキックをしたり。弱い者いじめをしてもいいんだという経験。この経験から学んだ行動は、先生に怒られた程度では根本から変わらない。


別のクラスに身体由来の吃音気味な少女がいた。Hさんと呼ぼう。彼女の机、彼女自身、彼女の物。あらゆるものが病原体に蝕まれていると誰かが言い始めた。なぜなら彼女は普通とは違うからだ、と。こう考えると、俺もいじめられていたのかも知れない。なんせアホだったから、それに気づかなかったか。あるいははだしでゆびしゃぶり、授業中は座らない。こんな真正の異常者に関わることを本能的に忌避していたのかもしれない。

いじめっこの少年達は彼女のものを触る。自ら触っておきながら「うわっ、Hさんウイルスがついた。」そう言う。次には、自らの友人やすぐ近くの誰かに触れる。実際のウイルスだったら、触った程度で何も起こらない。そもそも服を触られたからなんなのだ?


そのわんぱく達はトイレ行ったあとに、手を洗いすらしなかったし、昼休みに砂だらけになっても大して洗いもしなかった。彼らのがよぽど汚い。僕は手だけはキレイにしてたんじゃないかね。砂まじりの指はしゃぶれたもんじゃないだろう。逆にゆびしゃぶりを辞めてからは、どうだろう。

 

「ウイルス感染だ!」と触られた方は、実際がどうであれ自らが汚されたとい感じる。楽しい気分にはならない。何かが移ったと、不快感をあらわにする。自然だ。だれが喜ぶ?当事者たちは楽しみながら笑っていたけど。つけられたなにか嫌なものは、誰かに触れば移せる。こうやって遊びになる。
人の心を砕く遊びだ。振り返ってみればひどく不快感の強い遊び。事実として、たしかに存在していた。先生の間でも問題になっていた。注意もされていた。それでも終わらないのが、遊びだ。遊びとは楽しいからやるのだ。

 

Hさんと俺は同じクラスではなかった。〇〇ウイルスや○○菌なんて言葉は、ぼくらのクラスにもあった。要はだれでもいいのだ。だれでも標的になりうるし、だれでも参加者を強制される。無関係でも、唐突に当事者にされる。小学生程度の思考力なんてそんなもんだった。最近は小学生だろうと、幼児だろうと大人びてるらしい。びっくりだよね。インターネットによる早熟化現象かな?
それでも参加しない理性を持った人もいたがね。早熟だ。子供版の噂やデマの拡散ゲームとでも命名しようか。いじめは身近なのだ。俺?理性なんてなかったよ。いじめに当然のように加担していたね。さっいてー。


不思議なIさん

Iさんと僕は1年生から6年生まで唯一同じクラスであった。縁があるんだか、ないんだか。最もあまりIさんとは会話した記憶がない。どうにも、近寄りがたい静謐さ?美化しすぎ?そんな雰囲気があった。実際はなんてことのない少女だったと思うけど。大人びている、それだけで子供な僕には遠い存在であった。

 

Iさんはお医者さんの一人娘だった。どうやらお金持ちのお嬢様。家には家政婦さんがいるとか。絵本のほんまもんのお金持ちやないかと、ひどく驚いた。彼女はとても背が高く、頭もよかった。漫画が好きな少女だった。漫画のことを話しているときは、ひどくイキイキとしていた。振り返ってみると、オタクな気質を初めて人にみたのは彼女からだ。綺麗な人だった。

 

小学生においては、女の子のほうが発育が早い。おしゃれにも敏感なのか、精神の発達は女性のが早いだろう。彼女とは頭1つ以上の身長差があったかもしれない。僕はペットみたいに扱われていた。まんざらでもなかったね。美少女に頭をなでられて喜ばないやついる?いないね。よろこんで犬や猫になります。愛玩動物僕。今では彼女も大人。時間の流れって不思議だよ。お医者様でもやってるのか?あるいは漫画家?気になるよね。




遊戯王

遊戯王はカードゲームだ。アニメで知ったんだっけな?主人公の髪の形がとても特徴的で、一度見ればまず忘れない。主人公の武藤遊戯はとある古代の立体パズルをとくことで、もうひとりの別の人格と出会う。そしてもうひとりの自分と、カードゲームを通して、人格の謎を明らかにしていくお話だ。アニメの説明はどうにも難しいな。

 

ひとまずこのカードゲ―ムのルールを説明しようか。カードを40枚あつめて1つのデッキを作る。1人じゃプレイできないね。基本は2人対戦だ。対戦相手と自分はお互い4000のライフポイントを持つ。お互いのターンを交互にくりかえし、これが0になったら負け。

 

初めて買ったパックは何だったろうか。うーん。僕自身があまりつかえるお金を持ってなかったはずだ。どこからカードを集めてきたのか。最初から構築されているデッキを両親に頼んで買ってもらったんだっけ。学校で流行っていたなぁ。取り残されないように、必死だった


カードショップ屋

小学生、中学生をカモにするアコギなカードショップ屋があった。みんなカードゲームに熱狂しているから、少しでも強いカードを得ることに必死だ。プレイングも戦略もあったもんじゃないが、光ってるカードはいいものだ。
金銭価値や物の価値を理解してない小学生をカモにしていた。結構前にぶっ潰れたから満足してるけど。

 

 

寒さに指がかじかむ