回想録3 小学生時代1

はじめに

私は常に不安でいっぱいである。人にどう思われるかによって、自らを曲げてしまう。縮こまり、惨めに思え立ち止まってしまい、無難なことをするようにつまらなくなってしまった。

恥と一体なんだろう?人に馬鹿にされることだろうか?人にどう思われるか不安になること?時として、私は人にどう思われるかは私の行動を捻じ曲げない一面も持つ。赤裸々。ただ在ったことを事実として述べよう。

 

小学生時代

さて幼少期を過ぎる。
時間が経ち、歳を経る。小学校が始まる。

 

記憶や思い出というのは、ふとした瞬間に思い出してはまた消えていく。
いま思い出す最初の記憶は、一年の帰り道だ。私は家から子供足では歩いて20分ほどの小学校に通うことになった。
送ってもらった記憶がないため、おそらく歩いていたいったのだろうか?いや違う。3歳年上の姉と一緒に通った記憶がある。近所には、姉の同級生の女の子も住んでいた。彼女達とよく通っていた気がする。最も彼女らが部活をはじめるまでだが。

 

通学路

一年生の最初の時期は帰りを父が自転車で迎えに来てた思い出がある。ということは、入学したての頃は送ってもらっていたのかも知れない。
一年生の記憶は、I先生という女性が担任を覚えている。彼女は梅干しとブルドックに勝ち気な目をしていた。幼い頃の記憶では、気のいいおばあちゃんと思っていたきがする。そもそもそんな年老いていたのかわからないが。
私が覚えている範囲と、私が聞く範囲において、自分の小学生時代は周りからかなり浮いていたようだ。特別学級にいなかったこどが不思議で仕方がない。

 

はだし

まず私は靴を履いていなかった。いつからだろうか。入学式には履いてたんじゃないかとおもうが。学校にいるとき、学校の通学路。全てをはだしで動いていた気がする。当然、足は泥だらけ、トイレもはだしで行っていたのだろうか?
ただ相反することに、上履きを持っていた気がする。あぁ、上履きは持っていた。1週間ごとにくらいに家に持って帰り、自ら上履きを洗うことがひどく嫌いだった思い出がある。だが、それは一年生だろうか?
確実に言えることは、私は屋内屋外を問わず、はだしで生活していた時期があった。そして同じ程度の時期に、私は指をしゃぶっていた。

 

指しゃぶり

指しゃぶり。赤子の行動だろうか。この記憶はあせない。物心がついて、自らの記憶がはっきりしはじめる頃にはしゃぶっていた。つまり、その過去もしゃぶっていたはずだ。赤子の時代からたしか4年生10歳あたりまで指しゃぶりと、はだしの癖は続いた。はだしはもっと早くに矯正されたかも知れない。


右の親指を私は口にずうっとしゃぶっていた。指をしゃぶるときは、服か布を残ってる左手でこすりあわせる癖があった。幼い私はあらゆる服や布を擦った。より正確に言うなら、服を左手人差し指と親指でつまみながら、揉むように擦り合わす感じだろうか。私はこれを味見と呼んだ。材質によって、こすり合わせた時の感覚はひどく違う。その中で私なりの好みがあった。音がなり、擦ったときのコシが強いもの好んだ。休みの日は気に入った服や布をベッドに持っていき、ひがな指をしゃぶる日も少なくなかったはずだ。心地よさを感じていた。

 

条件反射がいまでも残っている。服をこすりあわせると、よだれがでて指をしゃぶりたくなる。指をしゃぶってたことを思い出すだけでツバがでる。ゆびしゃぶりなんてもう15年以上もしていない。しかし、あの日々では食事の時以外は常にしていた。それこそ寝る直前も、起きているときもずっとだ。奇妙だろうが事実なのだ。


だれもが、私のゆびしゃぶりを辞めさせようとした。テープで指を巻き、からしをぬり、わさびをぬり、あらゆる嫌がらせのような強制力でやめさせようとした記憶がある。誰もが、”私を正常"にしようと試みた。あの日のわたしはどう思っていただろうか。何が正常で、何が正常じゃないのだろうか。

 

とうの私は恥ずかしいと全く思っておらず、自分にとって当たり前のことで気持ちいいことをだった。周りがしていないと知っていたが、まったく気にならなかった。

 

一年生の授業風景

私はI先生を担任に持って、授業に参加していたはずだ。しかし多くの場合は、まったく授業に参加していなかったようだ。自らの席に座らない。教室中を歩き回り、授業と授業の間に挟まれる5分休憩には外に遊びに行く。小休憩が終わっても、私は授業に参加せず砂場で遊んでいることが多かったらしい。授業をサボって遊んでいたわけだ。サボってる意識すらなかった。考えるに周りの子が授業に参加しているわけだから、私はひどく孤立していたんじゃなかろうか。

 

みなは私に、なぜゆびしゃぶりをしているの?とよく聞いた。不思議な生物で、ガイジ(障害児の呼び方)にしか見えなかったと当時を知る友人は言う。だが、成績は良かったらしい。(小学生の成績にどれだけの意味があるか不明だ。小学生の成績はこの世で最も無意味な指標の一つである思う。特に日本の形式では)
というのも小学生の頃の授業なんてサルだって解けるような問題だ。そして成績は授業態度に左右される。私は小学校で5をとったことがなかった。授業態度は常に壊滅していた。イスに収まらず、立ち歩き。座っていても、何か別の遊びをしている。消しゴムを切り刻み、イスを前後に揺らし。落書きをしていた。あるいは寝ているか。指をしゃぶっていたろう。"落ち着きがない"私は小学校を卒業するまで常にそう言われていた。私は窓際のトットちゃんではなかった。あくまで一般的な指標の中で、異端で変わっていると評価をされた。母と父は一般的であることにこだわっていた。

 

母は、"教育熱心"であったので、私に入学前から漢字を教え、算数をやらせた。もっとも教えるのでなく、ドリルのようなものを買ってきて私に解かせただけだ。解いたものに、マルバツをつけ毎日毎日規定のノルマを課す。ゆえに私は文字通り授業の内容を学ぶ必要はなかった。すでに知っていたからだ。同時に、私は共同生活を学ぶことも例外のように扱われいた。自然と爪弾きにされていたが、いろんなグループを渡り歩くように遊びに付き合ってくれる友達もいたように思う。ひどく奇妙なことをすると、I先生が来る。私に、辛抱強くなぜこうしなければならないかととつとつと説明していた気がする。服を掴まれて、説得された光景は覚えているが。何も聞いてなかったのかないようなんてこれっぽちも覚えていない。

 

小学校には池があった。ハスの葉っぱが浮かんでおり、中には鯉や魚がいた。私は小学校を卒業するまでに最低3回は池に落ちている。なんで落ちたんだ?分からない。

 

体操服

私は通っている小学校の体操服を持っていなかった。姉のお下がりを着ていた。本来の体操服は、黒いパンツと白いシャツだった気がする。いや違うかも。少なくとも、私の着ていた体操服とは見た目が全く違った。
私のものは水色のラインが上下にあった。なぜ違うのかひどく恥ずかしいと思っていた記憶がある。1,2年生の頃はおそらく記憶にも残っていないだろうが。3,4年生にもなれば、いやでも気づく。なんかおかしいぞと。
母にお願いしても、買ってもらえなかったのにはなにか理由があるんだろうか。姉は体操服について、泣いてもいた気がする。よそはよそ、うちはうち。学校指定という言葉は知らないらしい。あるいはうちは貧乏だったのかもしれない。そうだろうか?

 

シール

私の原初の犯罪行為を思い出した。シールの盗難だ。意識に残ってるものはおそらく一番最初だ。他にもたくさんしているかもしていただろうが。これは小学校入学前の話かもしれない。引越し前か?本屋にはポケモンの手帳が置いてあった。手帳の中には、ポケモンの小さなシールがたくさんあった。幼い私は、それを服の裏側に貼りまくった。本屋からの帰り道に、母に自慢をした気がする。怒られただろうか。いや、彼女は仕方ないとなにもしなかった。盗難である。

 

ポケモン

ゲームボーイを知っているだろうか。初代ゲームボーイは灰色で子供の手にはひどくごつく大きい。姉が父に買ってもらったか、ポケモンの緑をやっている光景を思い出した。姉はゲームボーイを私に見せ、1回の和室に連れて行った。布団をしまう押し入れがあり、その中に2人で隠れ入りゲームをしていた。リビングなどの広い場所でやらなかった、母が原因だろう。


母はとにかくゲームを嫌っていた。姉が勉強せず、ピアノの練習もせず遊ぶことにひどく怒り示した。母はゲーム機を勝手に隠し、勉強が終わるまで渡さないと言う。最も、母の機嫌によってはゲームボーイとは今生の別れになる。実際にそうやって、かのゲーム機は失われた。

 

姉はなぜかポケモンのバグ技を知っていて、100レベルのゼニガメをつかっていた。他にはキャタピーが手持ちにいた。
彼女のゼニガメはかぜおこしを覚えていた。場所はタマムシジムの側だろうか。タマムシジムの右手に出ると、くさむらがある。その草むらで野生のポケモンを虐殺した記憶がある。

 

我が家は嘘で溢れていた。子供は操りやすい。子供は親からの命令や言葉に理由を求めない。親が求めれば、そこになぜ?なんて疑問を挟まずに実行をする。お皿を洗えと言われれば洗う。


何かがほしいと言えば、いつかねという。子供への嘘はいつしか当たり前の日常で、当然のものになったのだろう。ゆえに、私も姉も嘘つきに成長した。姉のことは知らないが、今の彼女をみても普通に意味のない嘘もつく。


父も母も。私が思考を獲得し、なぜ?を求める今になって分かる。我が家は嘘つきしかいない。どうでもいいことでも、大事なことでも嘘を付く。理由もなく嘘をつく。本当のことは存在しない。

もっとも両親は矛盾したことに、私に嘘をつくな。そう常々言った。その言葉の次の瞬間には、嘘を私達につくのに。私の理性がいつ生まれたのかは分からない、本能によって動物のように動く時期がいつしか終わり。思考という遊びを手に入れた時代には、私は親という存在をまったく信用しなくなっていった。

 

モルドバという国みたいだ。彼の国は、お互いをまったく信用しないことで、世界でもっとも不幸な国になった。全員が利己的で、全員が他者を信頼していない世界はひどく窮屈であると知っている。それでも、私が心から人を信用できたことはない。信頼関係を気づけた記憶はない。友人ですら、私は一歩引いてしまう。親友というものが分からない。

 

お金

2年生の頃だろうか。私はなぜか7000円を。姉は9000円を持っていた。だれかからのお小遣いだろうか。家族からもらったものではないのは確かだ。私は自分でお金を使ったことがなかった。とても嬉しかったことを覚えている。

 

そんな中母はこういった。あなたのお金を銀行にあなたの口座をつくって、安全に保管してあげると。どうなったか?前述の通り、私の手元には帰ってこない。私は自分の所有権を意識したのはおそらく高校生の時代だろう。そのときですら曖昧であったが。


時がたってから、母にそのことを聞いた。あなた達にかけた教育費を思えばその程度をもらうのは当たり前でしょう?そう悪びれずに言った。彼女は決して謝らない。間違ったことをしてると思っていないからだ。彼女は自らを聖人と呼ぶ。
というかそもそも、我が家に謝罪という概念はない。だれもが自分が正しいと主張をする。もちろん対極在る、感謝の言葉も存在しない。だれも謝らず、強要される感謝のみが存在する。

 

よそはよそ。うちはうち

だれもがこの言葉を知っているのだろう。体操服のこと然り、我が家が他の家とうすうす違うのはどこかで気づいていたのだろうか。
子供はとくにあるものだ、他の友だちが持っているものをほしがることが。母は口癖のように、姉弟のねだりにたいしてこういった。私達の要求は常に、テストや何らかの条件と交換であった。世間もそんなものか。よほど裕福な家庭を除けば。

 

ドリル

前述の通り、はだしでゆびをしゃぶる私は明らかに平均的な子供ではなかったが。知能はサルなみにあった。
母は、私に毎日ドリルを課した。ドリルは私にとって苦痛の代名詞にだった。それでも母は私に強制した。私は自らの課題が終わるまで寝ることができなかった。母のほうが先に寝ていたのではなかろうか。
これがひどくなるのは3,4年生の時代だ。彼女は明らかに苛烈になった。私は眠くて眠くて仕方ない中、学校の宿題と家の課題をこなさざるえなかった。
父は私を助けなかった。哀れだ、かわいそうだ。口ではそういいつつ、父は父で私とは別の存在だった。

 

ケンカ

これは切っても切り離せない絶対的な要素だろう。我が家は私が20歳を超えたいまでも、言い争いが耐えない。もっとも昔よりは遥かに減少したが。
物心が付く前から、姉は私言っていた。母と父はいつも喧嘩していると。


父は思い込みの激しく自らの過ちを決して認めない人間だ。そして父は謝らない。しかし、理性的で合理的な一面を多少は持つ。同時に父はひどく感情的で、暴力的な行動に大して躊躇いのない人間だった。


母も思い込みが激しく自らが世界の常識であり、私の理想が私の正しさであるということを言葉に平気で出すような人間だ。母は感情的で、ヒステリック、大声を出して自らの正しさを世間に知らしめようとする。


人の悪い面とは、長くそばにいればいるほど慣れてしまうものだ。私は自らを素晴らしい人間だなんて全く思っちゃいないが、こいつらの子供だ。私もある程度、彼らの悪い形質が心の中にあることを認めている。


父と母のケンカは、常に些細なことだ。ささやかで、どうでもいい、まったくもってくだらない。そんなレベルの内容で彼らは言い争い、時にはつかみ合う。頭がおかしい。

 

母は自分の言うことを聞かない全ての家族が気に入らないようだ。皿の置き方から、食べ物の食べ方、靴の履きかたから、果ては言葉遣い。文字の汚さまで。あらゆるものが彼女の攻撃材料になった。ひどく気まぐれで、気分屋。自らの感情を害されると、火のごとく相手を否定し攻撃する。母は、相手を貶めるためなら、過去のことを持ってくることも意図はない。罵倒し、こき下ろす。彼女は決して過ち許さない。自分を除いて。彼女に謝ることは無意味だ。嵐の如く、母の気が済むまで大声を出させるしかない。


父は父で古き時代の傲慢さを持っていた。悪い亭主関白と例と言うだろうか。自らが家族を食わせているから、私が一番偉い。家族は私に従うべきだ。そのような雰囲気がにじみ出ていた。父は命令を好んだ。そして、決めつけを好んだ。彼にとっての悪は、理性的な会話ではなく、彼自信のものさしによってのみ決まる。彼はルールであった。


こんな我の強い母と、父が交わるはずもなく。絶えずケンカをし、日常茶飯事のように警察に電話した。父の口癖は、「おぉ、警察を呼べ!」だった。今でも言うから筋金入りだ。


姉と私が理性を持った時代には、彼らのケンカを止めたことがなんどもある。ここまで私は彼らを嫌っているのに、なぜこの家にいつまでも居座っているのだろう。私の間違っていることを、なぜ私は続けているのだろう。

 

「離婚をしたらお前は私についてくるよな?」

父と母はいつでも離婚する離婚するといいながら、結局離婚をしなかった。
ひどく苦痛だった。母も父も、子供に向かって「離婚をしたらお前は私についてくるよな?」とケンカをするたびに聞いた。常に私達姉弟は板挟みであり。苦痛とストレスに翻弄された。安全な場所などどこにもないように思えた。
このくだらない質問に、はい。わかった。うん。それ以外の選択を取れる思考を私達姉弟はもちえなかった。

 

暴力という教育

父も母も暴力に大して肯定的であった。私の体が大きくなる中学生2年生あたりまで日常に”教育”があった。教育という名の暴力が私を襲った。

 

今、ふと怒りが芽を出した。幼い頃の私に会いたいと思う。涙が出る。彼を支えてやりたいと心の底から思う。コレは脳の作り出した錯覚だろうか。改ざんされて、都合よく親を憎むための記憶だろうか。私は今まだ生きている。生かされている。しかしまだ両親への感謝は湧き出てこない。枯れてしまっている。

 

忌まわしい過去なんて振り返るだけ、辛いことしかないように思える。ここで振り返るのを辞めるべきだろうか。私自身がこれからを生きるために、まったく無意味で必要ない時間なのだろうか。

 

幼い自分に会いたい。彼はどう思っていただろうか。彼は、彼は辛かっただろうか。彼は、私と会ったらなんと言うだろうか。彼と会話がしたい。筆を止めるな。続けるんだ。


私はあらゆることを矯正された。些細なことから、あらゆるものにまさしく至ったと思う。それは日常としてありふれすぎて、強烈な刺激をして残るまでもなく当たり前であった。ご飯は毎日食べてるんだから、回数が多すぎて覚えきれないでしょう?


教育という言葉は、彼らにあらゆる行動を許可した。彼らは教育の名の元に、なにを行っても良いと判断を下した。「あなたのためにを思ってやっているの!」この言葉は、相手の求めるものに依らない限りただの圧力であり、脅しに過ぎない。自らの正当性を保証するものでもない。

 

 

風呂場でのキック

私が風呂に入ってる時に何度父が突然乱入し、蹴り飛ばされたか覚えていない。私がなにかしたのだろう。多分。してないときもあって、愚かな彼の勘違いのこともあったかも知れない。


あの世界に会話、質問による精査。理性的な判断。家族による検証。なんてものはどこにもなかった。意味もなさなかった。嘘つきしかおらず、だれもお互いを信用していない。ゆえに犯人は常に決めつけられていた。弱いやつだ。


シャワーをひねるためのレバーまでふっとび、たたき受けられる。良く死ななかったものだ。感情的に暴力を振るい、振るわれる。私にもこの気質がある。冷静でありたいと思いつつ、感情の高ぶりを制御できずに爆発する。生きるだけでも必死だ。誰も傷つけたくない。もちろん、私も傷つけたくない。ただ、平穏でありたい。安全で信用できる場所を求めた。私の完全欲、完全主義の始まりは安全への訴求からなのだろうか。あるいは母の気質を受け継いだのだろうか。

 

壁紙へ色がついた

家族の間で、何かケンカがあり過ちが起こっても。冷静な話し合いは怒らない。一方的に責められ、攻撃され、起こった結果を対処させられる。


家には4つの緑のイスがあった。みどりのイスはリビングにおかれ、緑の机とともに食事の際に使われた。窓際にあるイスのすぐ後ろは白い壁紙がある。私は、イスの後ろ足でバランスを保ちゆらゆら前後に揺らす遊びが好きだった。時には、後ろに倒れそうになるのを体でもちこたえる。

 

ある日は違った。倒れてしまい、壁紙に緑の色がついてしまった。母は激怒した。私を殴り、歯ブラシをもたせ、緑の色が落ちるまで寝るなと言った。私は泣きながら従った。


幾度謝っても、無意味であった。謝罪とは、なんだろう?私は、謝罪に価値を見いだせない人になってしまった。今でも、口から出る謝罪の言葉に本心はなく。ただ、音でしかない。同時に人から受ける謝罪の言葉も空虚に響く音に聞こえる。

 

 

休憩

少し疲れた。悪辣に愚痴をこぼすだけになってしまっている。一旦に時間を置こう。

 

小学校と中学校はもっとも苛烈で濃い時期である。そして、高校生、大学中、ひきこもりとひどく薄い時代を過ぎる様になっていく。日々の時間を大切にできるだろうか。