回想録 小学生編15

初めに

何かを辞めるときってどういうときだろうか?
何か漠然とした嫌だな、とか。やりたくないなとか、曖昧とした不快感がまとわりついているときだろうか?
やりたくない単純で明快な理由を理解したか、思いついたか、嫌いなものをはっきりと認識したときだろうか?
それとも別のより楽でたのしいことをしてたら、やる時間がなくなったとか。自分が受け身な楽な状態でいれば、能動的にやることで起きるめんどくささを排除できるからだろうか。
意味を、失ったときだろうか。なぜ?どうして?私はこれをしているんだろう。どんな意味が一体あるんだろう?無意味で無価値だと思ったときだろうか。

 

なんでか自分が絶望の淵に立っているように感じる。挫折に横転させられ、自分より優れた他人と自らを比較する。今やってる問題を超えるられる気がしないと混乱してしまう。あるがままに、弱さを認めつづけても飲み込まれそうになる。


人はそんな普遍的でありふれた苦しみから逃げてしまうことができる。立ち向かう人もいる。諦めずに辛抱できる人がいる。一体何が違うんだろうと常々、ほんとうにいつも思う。
他人は他人で、自分は自分だ。自分がそういう弱い人間だと認識した上で、変化に断固たる態度を取れるかどうか。行いとして、現実に持ってくることができるのかどうか。
本は、違いや、なぜその違いが生まれたかが書いてある。理解できたのか?と聞かれると多分本質的な原則として理解が及んでない。自分の腑に落ちていないのだ。

 

 

 

ゲーム脳

小学生の日々は、楽しいこともあった。嬉しいことも喜びもあった。同時にどうしてもやりたくない苦しみもあった。
無気力で、自分ではどうしようもない環境だと諦めグセがついたのはその時からなのかもしれない。僕は辛いことから逃げるようになった。
コントロールできない現実に大して、癇癪を持って暴れるようになった。それって生まれつきなのかな?人はなんでそうなるまで放っておいたの?って正論を言う。正しいよ。理由がわかったら苦労しないし。問題を認識して解決できたら、大きくはならない。理由がわかったらこんな汚泥に沈むような生活をしてないと思う。おっと、つい悲観的な言葉が出てきてしまう。


親とは、私にとって安全で信頼の置けるものではなかった。しかし、私は親に依存している。依存とは、生活的な意味でだ。独立が必要だろうと、親からも周囲からも説教をされる。この言葉を聞くたびに、頭のどこかがきしむのだ。逃避をしているのだろうか。食事があり、寝る場所がある、PCをいじれる。楽な生活だ。今も僕は逃げる付けているのか。パブロフの犬の条件反射のようだ。その言葉で、次の自分の反応がわかる。それは無力感を感じる。無力感を感じることは、やがて無気力になっていくことを知った。人は自己肯定感が必要なのだ。この長く長く続いた悪い私にとっての悪循環。以下にして切り離すべきかと、言われたら相応の苦痛を払う必要があるんだろう。
自らを半身をみとめたうえで、このレールの先に未来がないとも分かる。果ては犯罪者か、自殺か。他者への無限の嫉妬か。甘えためんどくさがりなラクなことを求め現実叩き飲めれた物体ができあがった。


ものをこわす

親に感謝をしようと、本には書いてある。幸せな人だなぁ、と僕は感想を持つ。僕の弱くまだまだ未熟な脳では、彼らが被った苦しみなんて発見できないのだ。美しくきれいなものばかりを見る。裏にはどろどろと溶岩のような苦汁が煮詰まっている。飲み干した彼らの在り方に涙が出てくる。


もしかしたら僕は他人を褒めるのがうまいのかも知れない。もっと口に出すべきだろうか?逆に他人への共感能力がひどく弱い可能性もある。目の当たりにした痛みに大して、自分の体にも起こったような痛みは走る。つまり、他者への目に見えないことへの想像力が乏しいのか。他人と会話をあまりにしないものだから、他人への対話により理解経験が足りない。自らの妄想によって他人を補完する。想像上の他人はいつだって幸福で、満ち足りているように思える。


多くの人を調べてみればはそんなことはない。豊かだった人も、貧乏だった人もいる。親を幼いことになくした。虐待をうけていた。ひどい環境をあがいている人間がたくさんいる。その人をみれば、僕の心が勇気づくだろうか?劣等感にまみれることになる。また嫉妬が燃えはじめる。人間の弱さ。自らの心の弱さは果てしない。まるで宇宙のように際限がない。宇宙だって限界がある、でも見ている僕がちっぽけすぎてその暗さに飲み込まれている。毎日毎日同じような問答をして、もちろん答えがでても納得できるのか。過去に折り合いいつまでもつけられず、ただ管を巻く。疲れるし、悲観的な螺旋だ。昔の僕は、もっと明るく活発だったのにね。そんな過去に縋りはじめる。無邪気な子供になりたい。
今の自分と向き合うこと、笑えてくるくらい口先だけだ。だからこそ、この文字に書いて何かを行っていることが少しだけ嬉しいのだ。


ものを他人にあげる。捨てる。

苦しみとはありふれたものだ。その1つとして、僕は自分のゲームでもカードでもモノを勝手に捨てられることは日常だった。物を買っても、もらっても。母親がいらないものだ、有害なものだと判断すればいつのまにか僕の部屋から消えている。まるでもともとなかったかのようだ。不自然な自然が部屋にある。最初は気づけない。生活のうちに思い出す。探す。見つからない。おそるおそる親に聞いてみる。ねぇ、ぼくの☓☓☓がどこにあるか知らない?と。両親は「知らない」とまるでさも自然であるかのように答える。傷ついたなぁ。こうも平気で嘘をつけるんだって。嘘をついても、彼らは何も想ってないんだって。その口で僕に大して、嘘をつくなって言うことに。

 

家の駐車場、生ゴミの中、公共のゴミ捨て場の中を試しに探す。見つかることもある。影も形もないこともある。ボロボロで汚れて、まるで存在の意味を否定されたかのような姿。頭が冷える。熱がうまれ怒りがわき、急速に、また冷める。これは大きな無力感だ。

 

自分ではどうしようもない大きな力に、うちのめされる続ける。抗う意思すら摩耗していく。やがて行動や全てに自暴自棄になる。ただ、感情の行き場を失い。感情表現すらも下手くそになっていく。自覚すればするほど、なんとか現状を変えようとするほど僕にはダメだった。そう諦めるようになった。立ち向かうよりも、よりラクな方向へ、めんどくさくない方向へと、逃げることが当たり前になった。僕は、打ちのめされた。正解が、自らの行動が何を意味するのか、まるで分からなくなった。意味を探すことすら辞めるようになった。目の前を刹那的に判断するようになった。

 


友人に勝手にメールをする

携帯電話を中学生にでも買ってもらったんだけか。おもちゃ箱ことA君ともメールで遣り取りをする。母は遊びばかりするA君のことを心よく想っていなかった。
常々、友達を選びなさいと彼女は言った。僕は携帯にパスワードをかけていたはずだ。かけていたはずなのに、どうにもおかしなメールがA君から来た。


次の日にA君と会うと、僕に聞いてきた。「おまえ、俺に変なメール送ったか?」とA君は言う。意味がわからなかった。詳しく聞いてみれば、僕からA君宛に、「もう遊ばないでくれ。もう会わないでくれ」そんな内容のメールがおくられてきたと知った。犯人もクソもない。登場人物が少ない事件に名探偵が必要だろうか?イタズラにしては悪質で、人の意思を無視した行為だった。

 

人間に感謝するとは、その一部分を区切ることで示すのだろうか。彼の全体の意味を通して、自分与えた影響を伝えるのだろうか。柄にもない妄想に囚われている。もし、私がよりよい親元と信頼関係を気づけていたらこんな苦しみがなかったのだろうか。なんて。いまの自分をないがしろにしてしまっているだろうか。


自転車と補助輪

初めて自転車に載ったのは小学校2年生かもっと前か。シマジロウのカラフルな自転車だった。補助輪がついていた。ガラガラと走るたびにうるさい。周りの目なんて気にしないかのように、子供は振る舞う。
実際に目の前の自分のことにしか意識が向いてないのだ。環境という大きな力が認識されて、自らの行動を阻むことは少ない。試した後に、環境は幼い子に圧力を示す。
いつまにか補助輪つきの自転車はなくなった。ガラガラする音が恥ずかしくなったのだ。補助輪なしの自転車を買ってもらう。喜んだろう。交通事故に壊れてしまうまで、長い付き合いをした。