回想録 小学生編14

初めに

随分サボった。変わりに小説を書いていた。

人は何かを継続するとき、何かを諦めない為に、大いなる意味を持っていると持ちこたえられるらしい。あるいは勝つ可能性のあるゲームと考えるいいとか。細かいことは置いといて、ただ目の前の為すべきことをはじめるのもある。人区切りがいつつくか分からない。小学生編くらいまでは書き上げたいものだ。

 


巣立ちの会

小学校の卒業式の前に、巣立ちの会と呼ばれるお遊戯会みたいな行事がある。一年生から6年生に渡って起こった行事を生徒一人一人が一分ずつ短行で朗読していく。
「一年生!」と担当の誰かが言う、次に、「楽しかった校外学習」と続ける。おままごとだが、小学生はそれは真面目に取り組む。誰に見せるかっていえば、大人達に向かってみせる。ようは両親だ。
小学校は所属している学生たちのために、これだけのことをしてきましたよ。どうですか?そんなことを示し誇る会だ。
素直に従うのが健気だよね。


クライマックの最後ではみんなで口をそろえる。「今」「私達は」「この小学校を」「巣立ち」「卒業します」「「「「卒業します!!!」」」」とこんな流れだったか。歌でもある、一人が歌詞を口ずさみ、他の人が追いかけるように同じフレーズを合唱する。そんな歌のような朗読劇だ。声が揃うのはやはり気持ちがいいものだ。一体感か共感か。体育館は静まり返っている。小学生の声だけが朗々と響き渡る。見てて気持ちいいかも知れない。壮観だわな。


卒業する子どもたちの言葉が終わると、在校生から"ありがとう、さようなら"という歌をおくられる。どんな歌詞だっけか。ありがとうー さよーならー みんなみんなー。あなたたちのことはー わーすれーないー。だっけ?感謝しているよ。忘れないよ。そんな歌詞。この歌は落ち着いたフレーズだ。ろうそくを手にもって教会で歌うような歌だ。でもごめんな俺は忘れてしまったよ。送った卒業生達も低学年の人たちも。同級生すらろくに覚えてない。人間だからね。


卒業生への感謝を込めて歌う歌だが、感謝。感謝?感謝してなかったな。歌わされたから歌った。あくびをしながらね。1年生から5年生で合唱する。
この歌を贈られたときは、お世辞でも褒め言葉っていいものだなと思った。もっと人を褒めろ。

 

 ポケパーク

おもちゃ箱ことA君の家族には大変お世話になった。ポケパークと呼ばれるポケモンの遊園地がいつだったか、一時的に作られていたんだ。その名の通りポケモンのテーマパークだ。
A君とA君の家族に誘てもらい、一緒に連れて行ってもらった。大変ありがたいことに僕は、というか僕の家はお金1円も払っていない。完全にA君家のおごり。どうだってこんなに気にかけてくれたのかはわからない。
ちょうどその頃は、ポケモンルビーやサファイアが全盛期だった頃か。僕とA君はプロアクションリプレイで改造して、とてもじゃないが正規のプレイをしていなかったけどね。チート、ずるをしていた。


肝心のポケパークはアトラクションがあって、ジェットコースターやらがあった。ごめん、あまり覚えてない。

 

A君のママには悪いことをしたな。僕は空気が読めなかった。正直いまでも読めないけど。何をしたかというと。ポケパークまでは車で行った。ついでにゲームも持っていった。園内に入る時にはゲームは持っていかなかった。だって、邪魔になるだろう?列に並んでいると、目の前の男の子がゲームで遊んでいる。どうせなら通信対戦をしようと思った。あれゲームが今手持ちにないじゃん!小学生僕は、A君ママにゲームを持ってきてくれとお願いした。ようはパシリだよ。駐車場までわざわざゲームを持ってきれくれと要求したわけだ。どんな口調だったかは覚えてない。わがままなことだよね。確か、成長してからA君ママにその時の感想を言われておれは思い出したくらいだ。A君ママは、なんだこいつ?めんどくさ、そう思ったと言っていた。そらそうだ。お金まで出してもらって、パシらされる。どんな人だっていい気分はしないだろう。俺はきちんとお礼の感謝をしただろうか?

 

ゲームを持ってきていただいた。いや本当にありがとうございます。よって当初の目的の通信対戦は始まった。チートしてずるしたデータを使っているんだから負けるはずがない。しかし勝負は非情なのだ。レベル1の珍しいポケモンを出したり。ステータスが上限値のポケモンを出したりやりたい放題をした。ずるして勝つ優越感は気持ちいいか?えぇ、正直気持ちよかったですね...。弱いものいじめは在る種の快感を齎す。A君とA君のママ。Kさんにはほんとに頭が上がらない。ありがとうございます。

 
富士急ハイランド

他にもA君一家には、富士急ハイランドにも連れてもらったりした。彼らには本当にいろんなところに連れて行ってもらったんだ。小学生でそこそこ記憶が残っているからだろうか?間違いなく多くのものを与えてもらった。


逆に家族旅行に行った記憶はほとんどないんだ。母の里帰りに、中国に付き合ったり、那須高原とか行ったらしいけど。家族全員での旅行は本当に珍しいことだった。
A君とは、それこそ温泉に何度連れて行ってもらったことか。マザー牧場だったり。様々な場所に連れて行ってもらった。本当に感謝している。家族にも実際に連れて行ってもらったことはある。忘れている僕が薄情なだけか。中国の上海は母の故郷だ。何回か連れて行ってもらって、美味しいご飯を食べた。どうしてこんなに記憶が薄いんだろう。

 

A君とよく遊んでいる友人たちで、温泉に連れて行ってもらった。木村牛乳という牛乳が売っていた。温泉によくあるビン牛乳の自販機だ。そのときは5,6年生だったか?お互いを悪口のニックネームで呼ぶことが流行っていた。ハゲとか、横ハゲとか、デブとか。僕は木村牛乳と呼ばれていた。同じクラスの木村さんが好きだったことに由来する。その原因がこの牛乳だ。好きな人の名前がついた牛乳だ。どうなるか?そら、なぁ?前述の通りよ。ニックネームが決まった瞬間だった。そのニックネームは、相手が一度言ったら、言われた人も同じ回数悪口を言う事ができるシステムだった。自然とそんなシステムが出来上がった。ハゲと100回言ったら、俺は代わりに木村牛乳と100回呼ばれるわけだ。無法地帯だから、もう好きなだけ言い合ってたけどな。ちなみに木村牛乳の正式名称は、木村パスチャライズだった。もう生産終了してしまったらしい。ポケモンの名前といい、英単語や専門用語はなかんか覚えられないのに、子供のときの記憶力はすごい。

 


チェーンのケンカ

小学生のことの主な移動手段は徒歩か自転車だ。自転車には鍵がいる。チェーンのタイプだったり、自転車に付属している鉄の棒を車輪に差し込むタイプだったり。ある日僕の家の近くで珍しく遊んでいた。
ごっこかなんかしてたのかなぁ。理由は深く思い出せない。ケンカになった。6人ぐらいの子供達が見事に3対3の2つの陣営に分かれた。お互いをまるで憎悪するような雰囲気だった。
だれだったか、自転車のチェーンを振り回し始めた。冷静に考えて危ないわな。いくら子供といえで、鉄の鎖だ。ぶんぶん振り回せば遠心力で加速していく。頭にでも当たれば気絶はまぬがれない。一触即発だ。
安心なことに、衝突はせず、お互いケンカ別れをするようにその日は別れた。次の日には、仲直りしたんだっけ?なんであんなケンカになったんだが。

 

ご飯粒をキレイに食べる

A君の家は父親が死んでしまっていた。別の男性がA君の父親代わりに住んでいた。その人は競輪選手でめちゃめちゃ太ももがぶっとかった。小学生の胴体ぐらいは太かったね。競輪選手は何十回も骨折する。筋トレをして、鍛えていくと自然と太ももがぶっとくなっていくと笑っていた。Kっちゃん。伏せられてないな。みんなが愛称で読んでいた。ゴリラのようにでかくごつい見た目だったが、優しい人であった。


彼から教わった1つの教訓が在る。ご飯粒をキレイに食べろ、だ。どこかに旅行に連れて行ってもらったり、食事によく連れて行ってもらっていた僕だ。もちろん食事をすればいろんな癖や礼儀、マナーがある。
A君の一家はイタズラ好きでおおらかな人たちであった。巷に蔓延るうさんくさいマナー講師のような、ふざけた礼儀を要求はしなかった。しかし彼らには人としての最低限の礼儀を教えてもらった。


Kっちゃんは、ご飯粒を残すなだった。農家が一生懸命作って、巡り巡って俺たちの口に入り。オレたちに肉体を作ってくれる。俺たちは農家さんに生かされているんだ。そう言っていた。スポーツ選手なりの食事への感謝の示し方もあったろう。彼はいただきます、とごちそうさまも必ず言う人だった気がする。ゆえに彼はご飯粒だけは、自分でも残さなかった。

 

バイキングでも、定食でもそうだ。自分に与えられた食事を、食べられるだけ取る。もちろん限界は存在する。彼は決して無理強いはしなかった。しかし、ご飯粒を残さずお椀をキレイにすると彼はいつも褒めてくれたのだ。今でも、ご飯粒は食べられるだけ取るように心がけている。残してしまうこともある。捨ててしまったことがないとは言わない。それでも、罪悪感とともに彼の言葉蘇ってくるのだ。残さずキレイにしよう食べきろうと頭に彼の言葉が蘇る。


感謝の言葉を学ぶ。挨拶を学ぶ

こんにちは。ありがとう。ごめんなさい。最も身近な言葉。日常で使わったことがな人はいないだろう。些細な日常の一言だからこそ意味が宿る。この言葉を誰に教わったか、誰のおかげで自分の中に根付いたか覚えているだろうか?


私の場合は、A君の母親だった。彼女は、本当に優しく強い女性だった。いたずら好きの面白い人だ。彼女に怒られたことが何回かあるはずだ。僕は常識知らずの奇妙な子供だった。
あいさつ。そして感謝と謝罪だ。


僕の家では、挨拶は日常的ではなかった。日常には在るが、自発的な理解を示していなかった。感謝も謝罪も。強要される儀式のような意味合いを強く感じていた。親に何かを与えてもらったら、儀式のように感謝を返納する。いつどんなときに、感謝をすべきかを理解していなかった。謝罪もそうだ。親に教育と称され怒られる。その結果、謝罪の言葉を口にする。決まり決まった典型である。親は何か間違いを犯しても彼らは基本的に謝らなかった。僕は親から感謝と謝罪を要求はされたが、見本として親から学習することはなかったのだ。


ある日A君の母は僕に言った。人に何かをしてもらったら、ありがとう、と言いなさい。僕の目をみながらそう諭した。何か過ちを犯して、悪いことを人にしてしまった。そうしたら、ごめんなさい、と謝りなさいと諭した。人に出会ったら、初対面の人でも知人でも「こんにちは」と挨拶をしなさい。それがお互いが気持ちよくなるためのコツだ。そう僕は目をそらそうとしたが、彼女は僕の目追いかけ、じっと見ながらそう言った。


そのとき僕はA君のママに何かをしてもらったんだと思う。そして感謝をしなかった。それは、お互いの関係にヒビをいれることだ。信頼関係を崩すことだ。だから些細な一言だが、感謝を述べなさいと初めて私は理解したのだった。彼女は僕を叱ったのだ。


私は傍若無人でわがままだった。A君の家にはまるで、A君家の子供であるかのように入り浸っていた。24時間営業だ。朝早くから夜は遅くまで。7/11のセブンイレブン。彼らが寝てるところに、遊びに着た!とインターホンに叩き起こされたこともあろう。迷惑だったろう。嫌われていたかも知れない。それでもA君とA君の母親は、辛抱強く優しくかった。友人といえど、彼らは赤の他人だ。私はどれだけのことを与えられたろう?私はどれだけのことを返したろう?A君の母親に出会わなければ、こんにちはの挨拶もしない。ありがとうの感謝も知らない。ごめんなさいの謝罪も理解できない人間になっていたかも知れない。


自らの親へも同じことかも知れない。いいことだけじゃない、悪いことも会ったろう。ただ与えられて私は生きてきた。これは口先だけの感謝だ。しかし、私は確かに人に生かされている。