回想録3 小学生時代1

はじめに

私は常に不安でいっぱいである。人にどう思われるかによって、自らを曲げてしまう。縮こまり、惨めに思え立ち止まってしまい、無難なことをするようにつまらなくなってしまった。

恥と一体なんだろう?人に馬鹿にされることだろうか?人にどう思われるか不安になること?時として、私は人にどう思われるかは私の行動を捻じ曲げない一面も持つ。赤裸々。ただ在ったことを事実として述べよう。

 

小学生時代

さて幼少期を過ぎる。
時間が経ち、歳を経る。小学校が始まる。

 

記憶や思い出というのは、ふとした瞬間に思い出してはまた消えていく。
いま思い出す最初の記憶は、一年の帰り道だ。私は家から子供足では歩いて20分ほどの小学校に通うことになった。
送ってもらった記憶がないため、おそらく歩いていたいったのだろうか?いや違う。3歳年上の姉と一緒に通った記憶がある。近所には、姉の同級生の女の子も住んでいた。彼女達とよく通っていた気がする。最も彼女らが部活をはじめるまでだが。

 

通学路

一年生の最初の時期は帰りを父が自転車で迎えに来てた思い出がある。ということは、入学したての頃は送ってもらっていたのかも知れない。
一年生の記憶は、I先生という女性が担任を覚えている。彼女は梅干しとブルドックに勝ち気な目をしていた。幼い頃の記憶では、気のいいおばあちゃんと思っていたきがする。そもそもそんな年老いていたのかわからないが。
私が覚えている範囲と、私が聞く範囲において、自分の小学生時代は周りからかなり浮いていたようだ。特別学級にいなかったこどが不思議で仕方がない。

 

はだし

まず私は靴を履いていなかった。いつからだろうか。入学式には履いてたんじゃないかとおもうが。学校にいるとき、学校の通学路。全てをはだしで動いていた気がする。当然、足は泥だらけ、トイレもはだしで行っていたのだろうか?
ただ相反することに、上履きを持っていた気がする。あぁ、上履きは持っていた。1週間ごとにくらいに家に持って帰り、自ら上履きを洗うことがひどく嫌いだった思い出がある。だが、それは一年生だろうか?
確実に言えることは、私は屋内屋外を問わず、はだしで生活していた時期があった。そして同じ程度の時期に、私は指をしゃぶっていた。

 

指しゃぶり

指しゃぶり。赤子の行動だろうか。この記憶はあせない。物心がついて、自らの記憶がはっきりしはじめる頃にはしゃぶっていた。つまり、その過去もしゃぶっていたはずだ。赤子の時代からたしか4年生10歳あたりまで指しゃぶりと、はだしの癖は続いた。はだしはもっと早くに矯正されたかも知れない。


右の親指を私は口にずうっとしゃぶっていた。指をしゃぶるときは、服か布を残ってる左手でこすりあわせる癖があった。幼い私はあらゆる服や布を擦った。より正確に言うなら、服を左手人差し指と親指でつまみながら、揉むように擦り合わす感じだろうか。私はこれを味見と呼んだ。材質によって、こすり合わせた時の感覚はひどく違う。その中で私なりの好みがあった。音がなり、擦ったときのコシが強いもの好んだ。休みの日は気に入った服や布をベッドに持っていき、ひがな指をしゃぶる日も少なくなかったはずだ。心地よさを感じていた。

 

条件反射がいまでも残っている。服をこすりあわせると、よだれがでて指をしゃぶりたくなる。指をしゃぶってたことを思い出すだけでツバがでる。ゆびしゃぶりなんてもう15年以上もしていない。しかし、あの日々では食事の時以外は常にしていた。それこそ寝る直前も、起きているときもずっとだ。奇妙だろうが事実なのだ。


だれもが、私のゆびしゃぶりを辞めさせようとした。テープで指を巻き、からしをぬり、わさびをぬり、あらゆる嫌がらせのような強制力でやめさせようとした記憶がある。誰もが、”私を正常"にしようと試みた。あの日のわたしはどう思っていただろうか。何が正常で、何が正常じゃないのだろうか。

 

とうの私は恥ずかしいと全く思っておらず、自分にとって当たり前のことで気持ちいいことをだった。周りがしていないと知っていたが、まったく気にならなかった。

 

一年生の授業風景

私はI先生を担任に持って、授業に参加していたはずだ。しかし多くの場合は、まったく授業に参加していなかったようだ。自らの席に座らない。教室中を歩き回り、授業と授業の間に挟まれる5分休憩には外に遊びに行く。小休憩が終わっても、私は授業に参加せず砂場で遊んでいることが多かったらしい。授業をサボって遊んでいたわけだ。サボってる意識すらなかった。考えるに周りの子が授業に参加しているわけだから、私はひどく孤立していたんじゃなかろうか。

 

みなは私に、なぜゆびしゃぶりをしているの?とよく聞いた。不思議な生物で、ガイジ(障害児の呼び方)にしか見えなかったと当時を知る友人は言う。だが、成績は良かったらしい。(小学生の成績にどれだけの意味があるか不明だ。小学生の成績はこの世で最も無意味な指標の一つである思う。特に日本の形式では)
というのも小学生の頃の授業なんてサルだって解けるような問題だ。そして成績は授業態度に左右される。私は小学校で5をとったことがなかった。授業態度は常に壊滅していた。イスに収まらず、立ち歩き。座っていても、何か別の遊びをしている。消しゴムを切り刻み、イスを前後に揺らし。落書きをしていた。あるいは寝ているか。指をしゃぶっていたろう。"落ち着きがない"私は小学校を卒業するまで常にそう言われていた。私は窓際のトットちゃんではなかった。あくまで一般的な指標の中で、異端で変わっていると評価をされた。母と父は一般的であることにこだわっていた。

 

母は、"教育熱心"であったので、私に入学前から漢字を教え、算数をやらせた。もっとも教えるのでなく、ドリルのようなものを買ってきて私に解かせただけだ。解いたものに、マルバツをつけ毎日毎日規定のノルマを課す。ゆえに私は文字通り授業の内容を学ぶ必要はなかった。すでに知っていたからだ。同時に、私は共同生活を学ぶことも例外のように扱われいた。自然と爪弾きにされていたが、いろんなグループを渡り歩くように遊びに付き合ってくれる友達もいたように思う。ひどく奇妙なことをすると、I先生が来る。私に、辛抱強くなぜこうしなければならないかととつとつと説明していた気がする。服を掴まれて、説得された光景は覚えているが。何も聞いてなかったのかないようなんてこれっぽちも覚えていない。

 

小学校には池があった。ハスの葉っぱが浮かんでおり、中には鯉や魚がいた。私は小学校を卒業するまでに最低3回は池に落ちている。なんで落ちたんだ?分からない。

 

体操服

私は通っている小学校の体操服を持っていなかった。姉のお下がりを着ていた。本来の体操服は、黒いパンツと白いシャツだった気がする。いや違うかも。少なくとも、私の着ていた体操服とは見た目が全く違った。
私のものは水色のラインが上下にあった。なぜ違うのかひどく恥ずかしいと思っていた記憶がある。1,2年生の頃はおそらく記憶にも残っていないだろうが。3,4年生にもなれば、いやでも気づく。なんかおかしいぞと。
母にお願いしても、買ってもらえなかったのにはなにか理由があるんだろうか。姉は体操服について、泣いてもいた気がする。よそはよそ、うちはうち。学校指定という言葉は知らないらしい。あるいはうちは貧乏だったのかもしれない。そうだろうか?

 

シール

私の原初の犯罪行為を思い出した。シールの盗難だ。意識に残ってるものはおそらく一番最初だ。他にもたくさんしているかもしていただろうが。これは小学校入学前の話かもしれない。引越し前か?本屋にはポケモンの手帳が置いてあった。手帳の中には、ポケモンの小さなシールがたくさんあった。幼い私は、それを服の裏側に貼りまくった。本屋からの帰り道に、母に自慢をした気がする。怒られただろうか。いや、彼女は仕方ないとなにもしなかった。盗難である。

 

ポケモン

ゲームボーイを知っているだろうか。初代ゲームボーイは灰色で子供の手にはひどくごつく大きい。姉が父に買ってもらったか、ポケモンの緑をやっている光景を思い出した。姉はゲームボーイを私に見せ、1回の和室に連れて行った。布団をしまう押し入れがあり、その中に2人で隠れ入りゲームをしていた。リビングなどの広い場所でやらなかった、母が原因だろう。


母はとにかくゲームを嫌っていた。姉が勉強せず、ピアノの練習もせず遊ぶことにひどく怒り示した。母はゲーム機を勝手に隠し、勉強が終わるまで渡さないと言う。最も、母の機嫌によってはゲームボーイとは今生の別れになる。実際にそうやって、かのゲーム機は失われた。

 

姉はなぜかポケモンのバグ技を知っていて、100レベルのゼニガメをつかっていた。他にはキャタピーが手持ちにいた。
彼女のゼニガメはかぜおこしを覚えていた。場所はタマムシジムの側だろうか。タマムシジムの右手に出ると、くさむらがある。その草むらで野生のポケモンを虐殺した記憶がある。

 

我が家は嘘で溢れていた。子供は操りやすい。子供は親からの命令や言葉に理由を求めない。親が求めれば、そこになぜ?なんて疑問を挟まずに実行をする。お皿を洗えと言われれば洗う。


何かがほしいと言えば、いつかねという。子供への嘘はいつしか当たり前の日常で、当然のものになったのだろう。ゆえに、私も姉も嘘つきに成長した。姉のことは知らないが、今の彼女をみても普通に意味のない嘘もつく。


父も母も。私が思考を獲得し、なぜ?を求める今になって分かる。我が家は嘘つきしかいない。どうでもいいことでも、大事なことでも嘘を付く。理由もなく嘘をつく。本当のことは存在しない。

もっとも両親は矛盾したことに、私に嘘をつくな。そう常々言った。その言葉の次の瞬間には、嘘を私達につくのに。私の理性がいつ生まれたのかは分からない、本能によって動物のように動く時期がいつしか終わり。思考という遊びを手に入れた時代には、私は親という存在をまったく信用しなくなっていった。

 

モルドバという国みたいだ。彼の国は、お互いをまったく信用しないことで、世界でもっとも不幸な国になった。全員が利己的で、全員が他者を信頼していない世界はひどく窮屈であると知っている。それでも、私が心から人を信用できたことはない。信頼関係を気づけた記憶はない。友人ですら、私は一歩引いてしまう。親友というものが分からない。

 

お金

2年生の頃だろうか。私はなぜか7000円を。姉は9000円を持っていた。だれかからのお小遣いだろうか。家族からもらったものではないのは確かだ。私は自分でお金を使ったことがなかった。とても嬉しかったことを覚えている。

 

そんな中母はこういった。あなたのお金を銀行にあなたの口座をつくって、安全に保管してあげると。どうなったか?前述の通り、私の手元には帰ってこない。私は自分の所有権を意識したのはおそらく高校生の時代だろう。そのときですら曖昧であったが。


時がたってから、母にそのことを聞いた。あなた達にかけた教育費を思えばその程度をもらうのは当たり前でしょう?そう悪びれずに言った。彼女は決して謝らない。間違ったことをしてると思っていないからだ。彼女は自らを聖人と呼ぶ。
というかそもそも、我が家に謝罪という概念はない。だれもが自分が正しいと主張をする。もちろん対極在る、感謝の言葉も存在しない。だれも謝らず、強要される感謝のみが存在する。

 

よそはよそ。うちはうち

だれもがこの言葉を知っているのだろう。体操服のこと然り、我が家が他の家とうすうす違うのはどこかで気づいていたのだろうか。
子供はとくにあるものだ、他の友だちが持っているものをほしがることが。母は口癖のように、姉弟のねだりにたいしてこういった。私達の要求は常に、テストや何らかの条件と交換であった。世間もそんなものか。よほど裕福な家庭を除けば。

 

ドリル

前述の通り、はだしでゆびをしゃぶる私は明らかに平均的な子供ではなかったが。知能はサルなみにあった。
母は、私に毎日ドリルを課した。ドリルは私にとって苦痛の代名詞にだった。それでも母は私に強制した。私は自らの課題が終わるまで寝ることができなかった。母のほうが先に寝ていたのではなかろうか。
これがひどくなるのは3,4年生の時代だ。彼女は明らかに苛烈になった。私は眠くて眠くて仕方ない中、学校の宿題と家の課題をこなさざるえなかった。
父は私を助けなかった。哀れだ、かわいそうだ。口ではそういいつつ、父は父で私とは別の存在だった。

 

ケンカ

これは切っても切り離せない絶対的な要素だろう。我が家は私が20歳を超えたいまでも、言い争いが耐えない。もっとも昔よりは遥かに減少したが。
物心が付く前から、姉は私言っていた。母と父はいつも喧嘩していると。


父は思い込みの激しく自らの過ちを決して認めない人間だ。そして父は謝らない。しかし、理性的で合理的な一面を多少は持つ。同時に父はひどく感情的で、暴力的な行動に大して躊躇いのない人間だった。


母も思い込みが激しく自らが世界の常識であり、私の理想が私の正しさであるということを言葉に平気で出すような人間だ。母は感情的で、ヒステリック、大声を出して自らの正しさを世間に知らしめようとする。


人の悪い面とは、長くそばにいればいるほど慣れてしまうものだ。私は自らを素晴らしい人間だなんて全く思っちゃいないが、こいつらの子供だ。私もある程度、彼らの悪い形質が心の中にあることを認めている。


父と母のケンカは、常に些細なことだ。ささやかで、どうでもいい、まったくもってくだらない。そんなレベルの内容で彼らは言い争い、時にはつかみ合う。頭がおかしい。

 

母は自分の言うことを聞かない全ての家族が気に入らないようだ。皿の置き方から、食べ物の食べ方、靴の履きかたから、果ては言葉遣い。文字の汚さまで。あらゆるものが彼女の攻撃材料になった。ひどく気まぐれで、気分屋。自らの感情を害されると、火のごとく相手を否定し攻撃する。母は、相手を貶めるためなら、過去のことを持ってくることも意図はない。罵倒し、こき下ろす。彼女は決して過ち許さない。自分を除いて。彼女に謝ることは無意味だ。嵐の如く、母の気が済むまで大声を出させるしかない。


父は父で古き時代の傲慢さを持っていた。悪い亭主関白と例と言うだろうか。自らが家族を食わせているから、私が一番偉い。家族は私に従うべきだ。そのような雰囲気がにじみ出ていた。父は命令を好んだ。そして、決めつけを好んだ。彼にとっての悪は、理性的な会話ではなく、彼自信のものさしによってのみ決まる。彼はルールであった。


こんな我の強い母と、父が交わるはずもなく。絶えずケンカをし、日常茶飯事のように警察に電話した。父の口癖は、「おぉ、警察を呼べ!」だった。今でも言うから筋金入りだ。


姉と私が理性を持った時代には、彼らのケンカを止めたことがなんどもある。ここまで私は彼らを嫌っているのに、なぜこの家にいつまでも居座っているのだろう。私の間違っていることを、なぜ私は続けているのだろう。

 

「離婚をしたらお前は私についてくるよな?」

父と母はいつでも離婚する離婚するといいながら、結局離婚をしなかった。
ひどく苦痛だった。母も父も、子供に向かって「離婚をしたらお前は私についてくるよな?」とケンカをするたびに聞いた。常に私達姉弟は板挟みであり。苦痛とストレスに翻弄された。安全な場所などどこにもないように思えた。
このくだらない質問に、はい。わかった。うん。それ以外の選択を取れる思考を私達姉弟はもちえなかった。

 

暴力という教育

父も母も暴力に大して肯定的であった。私の体が大きくなる中学生2年生あたりまで日常に”教育”があった。教育という名の暴力が私を襲った。

 

今、ふと怒りが芽を出した。幼い頃の私に会いたいと思う。涙が出る。彼を支えてやりたいと心の底から思う。コレは脳の作り出した錯覚だろうか。改ざんされて、都合よく親を憎むための記憶だろうか。私は今まだ生きている。生かされている。しかしまだ両親への感謝は湧き出てこない。枯れてしまっている。

 

忌まわしい過去なんて振り返るだけ、辛いことしかないように思える。ここで振り返るのを辞めるべきだろうか。私自身がこれからを生きるために、まったく無意味で必要ない時間なのだろうか。

 

幼い自分に会いたい。彼はどう思っていただろうか。彼は、彼は辛かっただろうか。彼は、私と会ったらなんと言うだろうか。彼と会話がしたい。筆を止めるな。続けるんだ。


私はあらゆることを矯正された。些細なことから、あらゆるものにまさしく至ったと思う。それは日常としてありふれすぎて、強烈な刺激をして残るまでもなく当たり前であった。ご飯は毎日食べてるんだから、回数が多すぎて覚えきれないでしょう?


教育という言葉は、彼らにあらゆる行動を許可した。彼らは教育の名の元に、なにを行っても良いと判断を下した。「あなたのためにを思ってやっているの!」この言葉は、相手の求めるものに依らない限りただの圧力であり、脅しに過ぎない。自らの正当性を保証するものでもない。

 

 

風呂場でのキック

私が風呂に入ってる時に何度父が突然乱入し、蹴り飛ばされたか覚えていない。私がなにかしたのだろう。多分。してないときもあって、愚かな彼の勘違いのこともあったかも知れない。


あの世界に会話、質問による精査。理性的な判断。家族による検証。なんてものはどこにもなかった。意味もなさなかった。嘘つきしかおらず、だれもお互いを信用していない。ゆえに犯人は常に決めつけられていた。弱いやつだ。


シャワーをひねるためのレバーまでふっとび、たたき受けられる。良く死ななかったものだ。感情的に暴力を振るい、振るわれる。私にもこの気質がある。冷静でありたいと思いつつ、感情の高ぶりを制御できずに爆発する。生きるだけでも必死だ。誰も傷つけたくない。もちろん、私も傷つけたくない。ただ、平穏でありたい。安全で信用できる場所を求めた。私の完全欲、完全主義の始まりは安全への訴求からなのだろうか。あるいは母の気質を受け継いだのだろうか。

 

壁紙へ色がついた

家族の間で、何かケンカがあり過ちが起こっても。冷静な話し合いは怒らない。一方的に責められ、攻撃され、起こった結果を対処させられる。


家には4つの緑のイスがあった。みどりのイスはリビングにおかれ、緑の机とともに食事の際に使われた。窓際にあるイスのすぐ後ろは白い壁紙がある。私は、イスの後ろ足でバランスを保ちゆらゆら前後に揺らす遊びが好きだった。時には、後ろに倒れそうになるのを体でもちこたえる。

 

ある日は違った。倒れてしまい、壁紙に緑の色がついてしまった。母は激怒した。私を殴り、歯ブラシをもたせ、緑の色が落ちるまで寝るなと言った。私は泣きながら従った。


幾度謝っても、無意味であった。謝罪とは、なんだろう?私は、謝罪に価値を見いだせない人になってしまった。今でも、口から出る謝罪の言葉に本心はなく。ただ、音でしかない。同時に人から受ける謝罪の言葉も空虚に響く音に聞こえる。

 

 

休憩

少し疲れた。悪辣に愚痴をこぼすだけになってしまっている。一旦に時間を置こう。

 

小学校と中学校はもっとも苛烈で濃い時期である。そして、高校生、大学中、ひきこもりとひどく薄い時代を過ぎる様になっていく。日々の時間を大切にできるだろうか。

 

 

 

回想録2 引っ越しと幼稚園

引っ越しを

引っ越しをするそうだ。
もともと団地に住んでいるころに、どこか保育園か幼稚園に行った記憶はない。
ただ、姉は団地時代に小学校に通っていた気がするから、3歳差のわたしもどこかに行っていてもおかしくはない。

 

引っ越しをした先は一軒家であった。近くに電車の線路が通るからと、父がガラスの窓を二重にするよう交渉していた。
おかげなのか、外部の音は比較的静かな家になったようだ。
庭には芝生があった。それの芝生を掘り返して、庭に穴をほったらひどく怒られた気がする。

 

飾り

母は庭に、どこかからかってきた白い石膏?素材のテーブルとイスを置いた。テーブルとイスはレースのような所々彫刻されたようなスキマが空いていた。母は西洋のへのあこがれが強いのか、やたら天使の絵やら貴婦人の絵を家に飾った。
今も家に残っている絵がいくつかある。高くない安物だろう。他にもティーカップを一時期やたら買っていたようだが、多分私に物心が付く前にはあったから、随分古い頃の趣味だったのだろう。

 

部屋

家に引っ越した日はよく覚えていない。私の姉は2階の同じ部屋に割り当てられた。二人分の学習机を1つの部屋に置くのだから、それはもう手狭であったろう。2階には部屋がトイレを除き3つある。いや幼児のときに私は部屋を持っていなかったかも知れない。
1つの部屋は父のもの。1つは母のもの。1つは姉弟のものになった。もっとも子供達はプライバシーなんて言葉を知らなかったし、彼らの辞書にも存在しなかったため隠し事なんてものもできなかった。ノックもされず、全てがフリールームであるかのように振る舞う集団であった。

 

寝る場所

寝るときは、私と姉は母の寝室にあるクイーンサイズのベッドに寝ていた。子どもたちが寝たあとを計らって、父と母は子供を横においたまま性交にたびたび及んでいたようだ。私は理性を得た肉体的に大人になってから、姉にその話を聞かされた。別に知りたくなかった。子供のわたしはひどく無知で、一度寝たらまったく起きない子供であった。というか今も寝たらまずよほどのことがないと起きない。思い出して見るなら、父は普段1階の自分の和室で寝ていた。それがパンツ一丁で、朝自分の横に横たわっているのだから。まぁ、間違いなくそういうことなのだろう。おぇ。なんでこんなことを振り返らなくちゃならないのだ。生物学的に子供がいるんだから、そらやることやってるのは当たり前でしょうよ。

 

感謝へと至る道は

ぶっちゃけると、親から生を授かり、この世に育ててもらってもまったく感謝の念を示せない。社会的に育ててもらったのだから、感謝をしろ。そんな言葉が平然とまかり通っているが、どうやらその面でも異端と言えるらしい。他人の言葉は彼らがそこ至って、自分に言い聞かせている言葉に過ぎないと基本的に考えている。それを他人にお前もいつか分かる。そんな言葉を吐くだけ、どうにも気に入らない。話がついそれる。私は両親のことをひどく苦手としている。どうにも合わない。というかトラウマなのだ。それでもそんな彼らの環境に今も自分をおいているのだから、愚かとしか言いようがないが。彼らは私が精通する前、セックスという概念を知るまえにはセックスレスになっていたと思う。私の主観上では。

 

幼稚園

随分寄り道をしたが、引っ越しがあったのは私の年齢が小学生一年生になる1年か2年前のはずだ。そして、幼稚園で1,2年を過ごしたはずだから、年齢は4か5歳程度であろう。家から車で5分ほどの幼稚園に私は通っていた。最も毎日車で送り迎えされていたらから通わされていたとも言える。幼稚園での記憶は、とある先生の記憶。スケートボードの記憶。くらいだろうか。小学生で入り浸るとある友人とも、出会っているはずなのだろうが。まったく記憶にない。

 

 エピソード

とある先生。

美人、だったのだろうか?若い女性だったはずだ。20代~30代にも見える。私は幼少期とりわけチビであったわけで、周りの大人ひどくでかく思っていたのは確かだ。


スケートボード

幼稚園は遊ぶどころであろう。おそらく授業参観?のような親が子供を見学する日があった。父だったろうか?母だったろうか?彼らがいたきがする。私はスケートボードにのっているところをカメラに撮られていた。
ふと思い出したが、女の子がいたきがする。わたしがスケートボードにの乗れないのを、教えてくれたのか。奪っていったのか。自分の記憶が曖昧なところをどうにか説明しようとするのは結構無駄かもしれない。


教育熱心

母は教育熱心であった。この教育熱心は褒め言葉ではない。彼女は理想が高く、人に自分の理想と正しいを押し付ける人であった。今の私の視点で言えば、彼女は自分の思ったことを正しいと考える。そこに根拠はなく、理由の説明はなされない。

 

しかし、母は自らに自信を持っているようだ。その自信は内部からの理由ではなく、他人が私を褒めてくれるから。そういった外部に支えられた自信のようだ。ゆえに彼女は自らの正しさと理想を人に押し付けるとき、その理由を必要としない。彼女にとって、自らの意見は絶対であるようだ。反抗するものは、彼女にとって間違いだと決めつける傾向がある。ゆえに、私にとって彼女と何か話をすることはひどく疲れる。彼女は良いと悪い。勝者と敗者にひどく拘る。それは彼女の正しさに起因するのだろう。

 

彼女は、人それぞれが意見を持つことを彼女は未だに許容しきれてないように思う。自分の考えは常識であり、世間の常識であるがゆえに正しい。これを土台とし、彼女の会話は発せられるようだ。これは特に家族に対して、攻撃的な側面になる。私や姉や父は、母と他人である。他人であるがゆえに、それぞれ自分の思考や根拠、感じ方によって、自分の意見を持つことがある。その意見が母と相似しないことは、多々ある。ひどいことになる。烈火の激情だ。ゆえに私は彼女のこと感情的な側面をトラウマとする。

 

母は世間的には自らを人から認められる優秀な人物だと豪語する。人間はいくつか仮面がある。彼女の世間体への仮面は実際に優秀なようだ。彼女は保険の営業員をしていて、優秀な成績を収めているらしい。表彰式に呼ばれた。会社でもよく褒められる。そんな報告を母は言う。しかし、こと家族への仮面に対しては私にとってひどく受け入れがたい歪んだ思考であると私は思う。彼女とは、家族ではなく赤の他人としてならうまく付き合えたのかも知れない。

 

私にとって、母がどんな思考をもっていようと、あなたがそう思うならそれで良いと受け入れる立場だ。私はスタンスを取る傾向を持つ。最も、私自身も自らの意見を肯定してもらいたいが故に、感情的な否定をすることもある。

 

彼女は私達姉弟を優秀に育てたかったのだろうか。早い頃から学習させることが、私達の将来に繋がりひいて母自身への感謝に繋がると本気で信じていた。というか今でも信じている節がある。母は常々私達姉弟が成長したあとに彼女の期待に答えないことに裏切り者、お金と時間を無駄にした。そう言う言葉をよく発した。

自分の母への感想だ。夕飯をつくってくれたことも、何かを買ってもらったこともあるはずなのに。私の心はかくも狭い。

 


寝る前


彼女は中国人であった。そして日本語を話すことができた。父は日本人であり、中国語をまったく喋れなかった。ゆえに家の中での基本的な会話は日本語であった。私は日本語を身近として生きてきた。

 

母は私達姉弟に中国語を覚えさせようと考えた。寝る前に、中国の絵本を取り出し、私達に暗唱するよう促した。子供の頃は、うまく暗唱することで喜ばせることができる。そう学習していたのだろうか。素直に従っていた気がする。

 

それでも、朧げに苦い記憶も在る。彼女は規定した場所に至るまで、暗唱ができないと私達は寝ることができない日があった。彼女の教育熱心で、押し付けをする圧力。母は自分が正しく、母に従えばうまくいくという考えを隠さない。

 

今でこそ私が肉体的に成長したため控えめになっているが。私の人生の大部分において、おおきなトラウマとなっていく。今思うと、母にとってのおもちゃであった。操り人形のようなものだった。そして、父は無関心であった。私は幼少期の父の思い出がまったくない。良いも悪いもない。父はことなかれ主義で日和見主義だったと後で分かる。父のエピソードは小学生のあたりから、私の中に残り始めるようになる。

 

 

次へ

引っ越しが終わり。幼少期の終わりまでの話はこの程度だろうか。正直、小学生の1,2年生と幼少期の記憶はひどく混じっている。
もしかしたら、同じようなエピソードがまた大きく話すかも知れない。最も、書いている途中に頭の表層に浮かんだものを思うままに書いていることを留意してほしい。


これは同情の物語ではなく。悔悟でもなく。ただ確認の物語だ。
私自身がおそらく変だとわかっているのに、それに縛られていることを認める物語だ。

 

次は小学生入学の以後の話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

回想録1 自己紹介と幼少期

はじめまして

はじめまして。はじめまして以外のかたはこんにちは。最もそんな人は本当に限られているでしょうけど
語り部かつ、この回想録の当事者。Jです。日本人なのでこんな名前じゃないですけど。とある知人のデブがこう呼ぶので使わせてもらいましょう。敬語は使えないので、以後は適当な口語ではなします。

 

あなたはどんな人物でしょうか?私は何も考えず思ったことをここに書き綴ってるだけです。突然支離滅裂な跳躍が起こっても無視してください。
もし仮に読む人がいようといまいと。この序文は残ります。その上で、こんなどこぞの馬の骨とも知れない。見たことも聞いたこともない人間。偶然ですよね。感謝をします。あなたの興味に。

 

あなたがどういう経緯をもって、この文章に辿り着いたか気になりますが。
それは永遠の謎としてまずは私の自己紹介をさせてください。このはなしの本質かもしれません。ななめ読み程度にでも読み流していただいてもお任せします。言われずともですよね。

 

私はだれだ。自己紹介

私は肉体的な時間でそろそろ25年目を迎えます。誕生日が3月30日。今日の日付は2019年の12月19日です。次の区切りまで3ヶ月と少し足らずといえます。
最も、精神的にはとてもじゃないが未熟で誇れるような何かを成し遂げたわけではありません。いまの私は、この回想録がどんなタイトルになるか知りませんし、タイトルがつくかも不明です。
一言で今の私を示すなら、社会的に落伍している人間、でしょうね。

 

思いつくままに自らを振り返ってみますか。

私は大学を卒業していません。学業はあまり得意ではありませんでした。体育は好きでした。留学をしましたが、一年程度で中退をしています。
私は断続的に約4年ほど家にひきこもる生活をしています。これだけでいわゆるNot educated, Employment and Training。いわゆるニートの最低条件をクリア。
現在時点で収入はありません。貯金もないよりはまし程度。10万もないと思います。
父と母と実家に住んでいます。寝る場所があり、PCを使うことができます。食事は冷蔵庫のものを食べたり、自分で何かを買ったりして食欲を満たしています。電気代も水道代も全て父に依存しています。


つまり、私は今生きることは生きている状態。自分で何かを為したり、獲得したりといった行動をまったくとっていません。
人間のクズ、社会のチリ。形容詞や接頭語としては、そこらでしょうか。社会的に価値を持っていないニートのJとでも思っておいてください。

 

性格

私の性格にも言及しておきましょう。自分のとらわれているもの。そう言いかえられます

私は、何事も時間の無駄とみなしがちです。

私は、何かをはじめることにひどく億劫に感じることがあります。

私は、不安と恐怖、こうでなければならない、そういった完全主義的な側面をもちます。それは時に人に押し付けることがあり、人が思い通りに動かそうとするときがあります。

私は、他人に嫉妬をします。他人のものを欲しがるのです。私がそれを求めているか関係なく、他人が持っているものを私も持っていたい。そんな観念が無意識にあります。他人のもので何か足りない自分を補なえるという思いが無意識にあります。

私は、自分で何かを決めることが苦手です。自分自身が何かを断定的に、好き嫌いを決めたとしても。その立場に大して、曖昧さを保とうとします。

私は、否定をします。素直に受け入れることもありますが。否定されることはめんどくさいなぁ、と思います。最も話し合いになり理由を聞けるなら、それは素晴らしいことです。話し合いにすらならず、相手への罵倒に終始することはまったくもって辟易します。

私は、結論を求めつつ、自ら結論を出し難い性質があります。かりに表が正しいとしても、もしかしたら裏にも何か正当性があるかもしれない。どちらだろう。どちらでもいいのかもしれない。わからない。そういって結論をうやむやにします。自らの決断を人に委ねたいだけかもしれません。おかげでひどく頭でっかちです。石橋を叩いて渡らない。

私は、頭の中で自分の変だと思っていても、無理だ、変えられない。そう諦めることがあります。自らのより建設的な欲望に対してすらも、必ず存在する少しの障害に心をくじいていてしまうのです。準備に完璧を求め、始まりは誰しもが無知で無能であることを直視せず。ただ無能に絶望する心の弱さがあります。自然に反する思考をします。

私は、自分自身を卑下します。私は、何者になれない。なぜなら私は無力だからだと、思い込みたがっているのかも知れません。

私は、楽をしたがります。全ての苦難と苦しみ、不安もなにもない。ただ完全無欠で、全知全能な存在に突然なれたら。こんな願望がどこかに埋まっているのです。

 

要は人間のあらゆる弱さを内包している男ってことです。そして、とらわれてがんじがらめになっていると錯覚している。長いですね。

 

 

独白と欲望

ほんと長いですね。自分の性質なんて、時と状況によって絶えず変わります。たまたま、今自分の中に思った表層をすくい上げてみましたが、いささか自分でも傷つきますね。
いつだって、自分の中に足りない何かを、外部から補強しようとしまう。成し遂げた人物の過去を、成功したと言われる人の過程が気になって仕方がない。
それは、自分も彼らのように振る舞えが、いつか彼らのようになれるのだろう。そんな考えがあるからでしょう。
実際になれるかは、わかりません。自分以外は全て他人である。どこにも自分とまったく同じ考え、同じ思考、同じ行動をする人間はいない。
結局は、縋りたいのでしょう。救いを求めているのでしょう。自分の自我の末路が今の自分であるのなら、他人の自我ならばその道は変わるはずだと。


私には欲あります。それもつよい欲が。そして欲が簡単には叶わないことを知り、投げやりになっている。堪え性がないため、賽の河原で石を積むことはできないと思います。
女性のSEXがしたい。お金持ちになりたい。死にたくない。偉大な人物として認められたい。実に本能に忠実な動物です。


ダメになったから無力感を感じるのではなく、無力感が人をダメにするのだ。こんな言葉で正しいとわかったことを、行動にうつせたら。
自分で間違っていると思っていることをいますぐ辞められたら、それはどんなに素晴らしいことでしょう。
三者の意見に立てば、まるで全能者であるように助言をできます。状況を俯瞰し、要素を洗い出し、そして問題を解決へと導けると錯覚します。言葉とは、かくも簡単に行動を促せるのです。促すだけなら誰にでもできるってことです。だから神の言葉も人間の言葉も大して変わらない。
いざ、自分のこととなると、観念と思考にとらわれていることに気づきます。臆病で、怠惰で、諦念をもつ鈍い亀のような自分に出会うのです。亀に怒られそうですね。


欲望があり、行動がともなわない存在。弱さにとらわれている男。時間をむだにしたくないと完全な計画と準備を求めた結果、時間をむだにしから回る個体。
私がどんな人物なのか。それは語り部ある私じゃ前述のとおり曖昧な結論しか出せません。出た結論も大して意味があるかもわかりません。
しかし、おそらく私のことが分かるのも私しかいないのでしょう。
他人なんて知ったことじゃありません。とりあえず今日の自分が、頭の中でおもったことを、ひとます行動に移そうと思っただけです。それが薬のおかげだとしても。私は今日も社会に生かされています。

 

回想録の手前

回想録なんてものは、たいていの場合。ねじまがり、おぼろげで、奇妙で、偏見的でしょう。
私は今の性格を通してしか、過去の事実を描写できません。ゆえに私の過去はひどく歪んでいることを最初に留意してください。
悪い記憶、良い記憶。人にとっては、悪い記憶のほうが残りやすいと科学的に証明されています。
ゆえにこの回想録は、一面としてただの嫌な出来事の博物館かもしれません。毒の沼かもしれません。間違っても楽園ではないでしょう。
気分を害した場合は、すみやかに別の読み物をオススメします。この世は人間にあふれている。そして本にも知識にも、探せば自分の知らないことなんてそこら中にある。
私に言われずとも、気づいているでしょうけどね。それに他人なんて自らの人生とは関係があるが、無関係でもあると。私に限るなら、あなたの生命にほとんど無関係ですから。

しかし、姉と父と母にはひどい風評被害がいくに違いありません。先に謝っておきます。申し訳ない。私は社会と彼らに生かされているのに、感謝もしない。


最近のニュースを見ると、行為者の葛藤と鬱屈さが、まるで我が身のように感じます。誰もが、苦しんでいる。その怒りが外に出てきてしまった。排除されてしまった。

 

 

回想録1 幼少期

誕生。
私は1995年3月30日。中国人の母と、日本人の父親の間に生まれました。
生まれたときの記憶はありません。前世の記憶もありません。体重は3666gの赤子。性別は男です。
年齢が3歳年上の姉が一人います。家族構成はそれで全てです。そして、昔から今も殆ど変わらない私の狭い狭い人間関係の大部分はこれだけでほとんど説明できてしまいます。


団地。
回想録なんてものは書いたことがないため、時として光景であり、時として想像した感情であることは許してください。
私は幼い頃。幼稚園にも行かないほどのころ、団地に住んでいました。高い階だったと思います。
団地の下りると、赤い小さな木の実がたくさんなった木が等間隔に並んでいました。
団地の頃の記憶もほとんどありません。緑色の絨毯が家には敷いてあったはずです。

 

おねしょとうんこ
姉の尊厳を踏みにじります。20年以上も前のことですから時効でしょう。私の記憶を思い出すためのきっかけになってもらいます。
ある朝起きると、姉がうんことおしっこを同時に漏らしていた日がありました。大笑いをした記憶があります。姉は泣いていました。
私もおねしょやうんこをもらすくらいしててもまったくおかしくないはずですけど。この頃は朧げです。

 

ピアノ教室
姉は近くのピアノ教室に通っていました。振り返ってみれば、姉が主体性を発揮したと言うよりも母が通わせたのでしょう。母は教育熱心でした。これは褒め言葉ではありません。だって姉は泣いてましたから。最も世界的ピアニストも練習に苦悩し泣いたことがあるかもしれません。人の自然を知るには私の狭い世界では狭すぎます。
私が5歳にもみたず、3歳程度?であった頃と思います。幼い私を伴って、母はピアノ教室に姉を連れて行っていました。母はその時代に、働いてなかったと思います。
姉がピアノのレッスンをしている間、私はひどく暇でした。ピアノの教室には、クローゼットがありました。クローゼットを開くと、服の代わりに本棚があるのです。
世界不思議紀行録?そんな名前の漫画を読んでいた記憶があります。ピラミッドや、ナスカの地底絵。死の湖、死海カスピ海、世界で最も大きなハスの葉っぱ。エベレスト山は海が盛り上がってできているから貝がある、とかね。様々なはなしがのっていたはずです。主人公の少年はどこかおっちょこちょいで、世界中のどこにでもひとっとびな乗り物を使って大陸を渡るのです。偉人を解説する漫画もあったか?
他にはドラえもんが世界を案内する漫画もあったはずです。他にも絵本。思い出してみれば、私にとって本は幼少の頃から身近なものだったのか。絵と文字と組み合わせが好きだったのかも知れません。

 

金柑
ピアノ先生のエピソードはもう一つあります。ピアノ先生はメガネを掛けたマダム?そんなイメージが残っています。彼女は庭に金柑を植えていました。ジャムにすると美味しいらしいです。
幼い私は、庭にたんと実った金柑を穴をほって全部埋めた記憶があります。とんでもなく怒られたような気も、母がひどく謝っていた気もします。ピアノ先生はがっかりしていたでしょう。

 

線路
姉は水泳にも一時期通っていたはずです。彼女通っていた水泳場の近くには線路がありました。踏切台があり、当然電車が通るわけです。
父親の車に釣れられて、姉を迎えにいったとある日でしょう。夕方、暗くなりつつある時間帯だったと思います。私は線路に足を入れる遊びしていました。暇ですから。
線路の床のスキマ、電車の車輪が通る場所は狭いところと太いところがあります。ある部分は返しが付いてる部分があったきがします。
故意か偶然か、私は足を線路の返しがついた狭い部分に取られてしまいます。すっかり自分では抜け出せなくなり、泣いてたでしょうか?えぇ、泣いていた気がします。
人は簡単に死にかけるんです。踏切台はカンカンなりだし、電車がくるらしい。本当にそうだったのかはわかりません。もしかしたら脳が今現在改竄してるのかな。
そんなところに、水泳場からたまたま姉が帰ってきました。姉は走って私を抱えて線路からどかしてくれました。無理やり足だけを引き抜いたため、はまっていたかたっぽの靴は線路に残りました。ゴム製の靴だった気がします。
それがどうなったのかは思い出せません。列車が通過したあとに拾ったのか、あるいはそのまま帰ったのか。

 


ピアノ教室と言えば、野生の蛇に出会ったこともあります。父がそばにいて、こいつは毒がない。そういいながら、木でどこかに投げ捨てていました。


母とお向かいの人
幼少期にはあまり記憶にありませんが、母はヒステリックな人でした。彼女は怒り、私はお向いに住んでいる人の家に連れて行かれたことがあります。
なぜそうなったのか、そのあとどうなったのか。まるで思い出せませんが、泣いていた光景が残っています。他愛もない。誰もが怒り、誰もが泣いたことがあるでしょう。


私は今住んでいる家に引っ越すまではこの程度のエピソードでしょうか。
理性も思考も特にない本当に幼い幼い年齢の時代です。

 

さて果たして、現在の自分に至るまで続くのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左利きとはさみ

危機利き手


右利きだあろうか。左利きだろうか。
両手で万全に何でもできる方もいるだろうか。
私は、ものによって左手だったり右手だったりする。


ペンを書くのは右手でだが、箸は左だ。ハサミも左。歯ブラシも左。左利きかもしれない。ペンだけ書道の弊害で突然変異しただけで。日本の矯正文化が最近消滅して、潰されていた個性が受け入れられる。それは左利きの人にも大いに助けになる。
でもボールを投げたり、殴ったりするのは右。理由は知らない。もともと全部左手だったっけえ?右手の小指をドッジボールで折ってしまって、仕方なく左手を使うようになった時期のせいで左偏重になったのだっけ?単純に両利きだとかっこいい!と考えてた時期もある。左手が利き手だと、天才型だ!という言葉にのせられたことも在る。現状の事実を述べるなら、奇妙な状況になってることは間違いない。
困ってるわけでもないから、矯正する気もない。

 

 

ハサミはやる

ただ、ハサミ。ハサミだけはけっこう困る。ハサミを使うときは左手でハサミをもつ、右手で切りたいものを持つ。切りにくい。すごい切れない。ある程度切れ味のいいハサミじゃないと、うまく切断されない。ハサミは基本的に右手用に作られている。左手用のハサミも一応存在するが、ハサミ界隈での暗黙の了解は、右手至上主義。これによって一番困るのは、ハサミは根本だと切りやすい。先端だと切りにくい。これはハサミを閉じるにつれて、刃間の角度が徐々に少なくなっていくからだ。大きく開いてるほうが、より小さな力でものを切れる。角度が狭くなると、切るためにより強い力がいる。テコの原理だ。最近では、切っている間も常に30℃の角度が保証されるハサミもある。刃がカーブを描くことで均一な力で切れる。切った時の切れ味も良くなるのだと。体感もバチンと気持ちいい。実際に使ったことはない。科学的に切りやすい進化をしたハサミがあるってだけだ。


僕の身の回りのハサミは、刃が真っ直ぐな古い時代のハサミだった。右手用のハサミを左手で使うこと。そして直刃のハサミ。この2つが揃うとわりとひどいことになる。特にひどかったのは、家庭科の授業。服の裁断だ。古着をもってきて、リサイクル。新しい想像と独創的に満ちた普段着を作ろう。そんな内容だった気がする。そこで作った服を次の日来てきた生徒はいなかったと思う。その日の萌えるゴミがやたら膨らんでいたのは覚えている。女子は持って帰ってた。変態はどこにでもいるからな。


ハサミがなぜものを切るか知っているか?俺も今さっきに知ったのだが、刃の鋭さで包丁のように切っているわけではない。ハサミについてる2つの刃が閉じるとは、2つの板の密着度により点の破壊が起こる。点の破壊が連続して線になり、結果切れる。ハサミの刃をなぞっても、別に出血はしないだろう。わざわざ研ぎでもしない限り。研げば木だって肉を切り裂く。包丁を指でこすると下手すると神経切断でやばいから試すな。だから、ハサミってのは科学的に結構難しい説明をあのシンプルな構造で成し遂げている。刃の鋭さで切ってるわけじゃないのだ。すごいやつだ。というかこんな説明をせずとも、布はハサミで切りにくい。紙はきりやすい。それだけのことが言いたかった。ふにゃふにゃは破壊されにくい。


布を裁ち切るときは、左手で右利きのハサミを使わないほうがいい。まるで切れない。一応切れる。切れることには切れる。より正確に説明するなら、他の人の10倍の時間は本当にかかる。なんなら左利きだろうと、右手で不慣れにハサミを扱ったほうが早く来れる。そのくらい不条理だ。

 

左利きは日々適応している

あなたが右利きで、右利き社会において何不自由しない生活を送っていたなら、それは大変幸いである。私も完全なレフトハンダ―ではないため、ある程度恩恵を受けてきた。ドアの取ってだって右回りだし、トイレの洗浄ノブも向かって右側についている。マウスだって、基本的に右利きように作られている。なんなら包丁だって、刃の方向は右利きのために最適化されている。左利きは圧倒的なマイノリティなのだ。もし左利きのひとが困っていたら少し助けてあげてほしい。自分には理解できない困り方をしていたら、実際に自分の左手でやってみてほしい。具体的にはハサミを左手で使うとか。

日課のもじもじzもじ

何者かになりたいなぁ


書くしかない。タイマーが始まってしまった。
何かを始める時に0か100か基準を作ってしまうことが在る。
この世にすでに存在するトップと呼ばれる絶頂層。自分が何もできない、何も持ってない0として、いきなりトップスピードの100を自らに求める性質。小さな問題から解決すればいい、簡単なところから始めればいいと頭では知っているつもりなのに。
癖なのだろうか?おかげで、出来もしない現実と、理想的な神のような自分との差異に苦しむことになっている。
あまりの乖離に今すぐオナニーでもしながら、ふて寝を決め込みたい気分だった。

 

赤子はころぶ


ストーリーは楽しいだけじゃなくて、計画や具体的な流れとも言うことができる。
一部の十分に訓練されたやつらは、頭の中に流れや自分の次に行うべきことが瞬間的に発生して、点と点が線で繋がり。実際に無意識であるかのように手を動かせる。
天才だと、自分とは違うんだ。そう思いたがる自分がいるけど、そうなりたいと思う自分もいる。
慣れだ。慣れは時間がいる。赤子がいきなり歩けずに転ぶように、最初に水に入った瞬間は、何をどうすればいいか分からずに、とりあえず手足をばたばたともがかせるように。
いつでも、何かをよどみなく、自然に、思考しないように、素早く行うには継続的な慣れがいる。慣れとは練習の積み重ねであり、自分が障害を克服したであろう証拠である。
絵を書くにしても、音楽を書くにしても、動画を編集するにしても、最も俺はどれも実際にできないが。いや、初心者のような振る舞いができるが。
頭の中で自分の次にしたいこと、理想的な動きがない人間っていうのは多分そもそも創作に向いてない。いわゆるマニュアル人間だろうか。ルールやチュートリアルがあって、ステップごとに分けられていて、全部が全部それを用意されないと何もできないのはもしかしたら創作に向いてない。かもしれない。適当に言っている。そもそも生み出したいものが、最初にあって絵も音楽も手段に過ぎない気がする。あるいは遊んでいるうちに、何か漠然としたシーンが浮かぶことも在るか。かくあるべきはないんだ。絶対的な答えをついつい探してしまう。宗教にはまってないのが奇跡みたいだ。

 

xと泡


想定してた順番としては、何事も決められたルールなんて存在しないが。頭の中や、何かを見て、聞いて、自分の中に現実に生み出したxが生まれる。xは自分の想像だ。下手くそだろうと、絵や文字として表現することができる。それを人に伝えて、こういうことがしたいと助けを求めることもできる。あるいは自らが独学で資料を参考にして試行錯誤もできる。それはつまり下書きであり、ストーリーだ。
自分が思い描いたから、次に何かを生み出そうとする。でも、実際問題として万事が万事現実にできるわけじゃない。頭の中で思ったところで、そこでとまる。大抵は泡のように弾ける。
現実に何かを作り出すには、あと一歩いるらしい。発明は実際に生み出した人が偉い。過去に戻りたがる精神は、言い訳みたいだ。いつだって後悔してるし、やらなくていい理由を探してる。それで生きていけたらなぁ。少なくとも、それで生きていくなら探さなけりゃならない。結局動くことは変わらんのだ。動く方向が変わらないからこそ、自分の中で折り合いをつけて、納得のいく方向に行くだろう。

 

まるで何でもできそうな人


ZUNさんってすげぇよなぁ。絵も音楽もプログラミングも物語も書く。この世にいるまるでなんでもできそうな人間の1人だ。学習能力というのだろうか?人間として根本的に備わってるものが違うの?


やりたくないから俺が逃げてるだけ?歩いてる途中にさ、やべぇ、次に何をすればいいか全くわからない。そういう場面に出会うわけだ。やばい、どうしよう、それだけが頭に浮かんで動けなくなる。彼らならどうするだろう?そう考えるんだけど、実際知ったところで、彼らなりに見つけた答えで動いてるわけだ。俺とは全く関係がない。知ったところで深く影響するのなら、まるで機械みたいだ。自分でたどり着いたわけじゃないから、応用も利かない。理想を持ちすぎ?俺の場合なら、次に何をどうすれば分からなかった、辞めてしまう。そういう毎日だった。代わりに調べて、今現在の問題点を羅列する。まず次にどんなことをしたいか書き出してみる。こういう問題解決のための行動を続けるにはどうしたんだろう。すげぇ人はやっぱすげぇよなぁ。

 

まず、全体の適当な流れやキーワードを1つ出す。そこを出発点として、想像の羽を広げていくわけだけど。人生全てで訓練でもしてるのだろうか。

物語って何

 

 

たまたまゴールドラッシュから

スコップとバケツとズボンで大儲けした人間がいるように、世界には生産者のための道具を作ることでお金持ちになる人間がいる。
彼らの話は物語になる。歴史と物語って何が違うんだろう?

 

歴史は単純に起こった事実だけを、記すもの?物語は歴史の登場人物達が思ったことや感じたことも記すもの?
基本的に、歴史より物語のほうが面白い。織田信長が、今川義元をぶっ殺した。よりも、今川義元をぶっ殺さないと織田信長が滅亡するからぶっ殺した。と表現するほうが、信長の心の動きがわかっていい。それはそれとして、彼らが何を思ったのかは関係なしに面白い光景もある。光景ってことは誰もが理解できる客観的な事実のことだ。


工事現場の前に置いてある赤パイロットコーンにぶつかってころんだ人。その頭にコーンがかぶさったら面白い。バナナの皮で滑ったら面白い。坂でブレーキをかけた自転車が一回転したら笑える。見ている人に感情が沸き立っても、物語なりうるらしい。

 

一旦まとめよう。登場人物の感情や心理を一人称で描写するのは物語だ。読者が、何かを見て感情が動くような光景も物語だ。
人以外は物語なりえないのだろうか?山や海。動物は?経験的判断によるなら、なりうると思う。神話とか。山が地震で崩壊して、2つの山になった。人ではなくとも、変化は物語みたいだ。あらゆるものが物語なのか。

 

物語を作っている人

なんで物語の話をしたかと言うと、単純に好きだからだ。特に生と死に関する物語。出会いと再会の物語。時空間を超える物語。これらの要素が含まれてるともう弱い。想像だけで勝手に泣けてくる。


読むのは好きだけど、自分自身で物語を作ったことはない。不思議なものだ。作るのが好きって言うのはどういう感情なんだろう。それとも好きじゃなくても作れる、のか。機械的に作る方法があるのだろうか。
あるいは作ってみた結果、好きになったってこと、なのか?ならば、やってみよう。そう思って頭を唸らせたことも何度か在る。やり方が間違っているのか?とにかく書いてみようという意思だけが空回りしてしまう。だから物語を書くすべての人を、いつも尊敬している。感謝しながら読んでいる。ありがとう。趣味で書いてようと、生活のために書いてようと全ての物語を作る人が素晴らしいと思う。

 

物語は記憶に残る

何かを教えるのに、単純な事実だけを伝えるのだと記憶をしなければならない。文字を覚えるって難しい。りんごは赤い。こんな短文ならすぐ覚えられる。
専門的な分野になって、リチウムイオンは液体電池の材料になるなぜなら~。と言われても、すぐに忘れてしまう。あらゆる人に関係する知識が物語のように伝達できたら、今までよりも遥かに多く覚えることができる。絵があって、音があって、ストーリーがある。子供時代は絵本で世界に触れ、紙芝居やアニメで多くのことを知る。擬人化されたものは、もっと世界を身近にしてくれるはずなのだ。


問題は誰がそれをするか、なのであって。誰かにしてもらいたいことは無数にあるが、じゃあ思い立った自分がやってみればいい。…そういう話もある。というか世界は多分そうやって回っている。

 

キャラクター

物語は起承転結とよく聞く。あまり信用していない。いろんな物語を今まで読んできた。その中で大事なのは、キャラクターのほうである。そう感じる。魅力的なキャラクターが動けば、何をしたって面白いのだ。多分。織田信長はたまたま戦国時代の大名であったように。信長が今の時代のサラリーマンでも面白いだろう。ホストでも警察でも、学生でも、内閣総理大臣でも、何しても面白そうじゃなかろうか。そんなに織田信長に詳しいわけじゃないが、キャラクター、というまるで全体の流れのおまけのように扱われる存在がじつは一番大事だと思う。


キャラクターは行動の主体者だ。同じ状況でも、キャラクターによって行動は全く変わる。考えも違うわけだから、当たり前の話、次に続く展開も変わろう。では、どうすれば魅力的なキャラクターを作れるか。やはり模倣だろうか?仮に作ったとしても、会話も、行動も、思想も、感情もそのキャラクターは持つ。彼らのあるがままに動く、その動きを必死に再現する。大変だ。こんな重労働も慣れ得てしまえばなんのその?作者には頭が上がらない。いつもありがとうございます。

 

ぼちぼち創作も楽しそうだなぁってやっぱ読者としては思うわけです。産みの苦しみが女性しか経験できない時代じゃないってわけで。

今日の気分

30分のエッセイ

ほどほどにわからされている。僕にとって、なにかを始めること。取り掛かることはとってもハードなことの一つだ。
作文用紙とペンと渡されて、原稿を産めよ。まだやりやすい。
自分で決めて、自分で準備して、自分で取り組む。これが難しい。これを続けることも、個人的前人未到の極地。空前絶後な感じ。

 

二人の自分がいる。衝動的で活発、創造的な自分。冷徹で否定提起な、停滞的な自分。二人の自分は相反していて、活発な自分が出した案を、冷徹な自分で実行しようとすると上手く行かない。


とはいっても、常に完璧な気分と雰囲気にどうやっていられよう?ここで私が為すべきは、おそらく2人の自分の役割分担なのだ。それぞれ何ができるか知ることが、自分なりの調整になる。

 

可処分時間

世界にたくさんの人がいる。言葉で理解する以上に、世界は人に溢れている。気になる人を知ったからと、調べ始めると。また別の人がたけのこのように出てくる。
きりがない。諦める必要がある。これ以上知ると、時間がなくなってしまう。知ることが得するだけでなく、自分に害になってしまう時代になった。死を意識したとき、自分が消滅するまでの時間は計算できてしまう。


ソーシャルゲームでプレイヤーの奪い合いではない。可処分時間の奪い合いと表現される。可処分所得ではなく、時間。
時間がお金の価値を超えた時代らしい。10~20歳代の若者に、ウォーレン・バフェットの資産と、自分の残りの時間全て交換したいか?そう聞いたらどうなるだろう。
体験してみたい。


人は時間が限られている。その中で、自分の時間を使いたい魅力的な人に捧げる人もいる。モノだったり、あらゆるものが対象になる。
自分が最も魅力的に感じるなら、自分に捧げ。自分にとって、捧げたい人を見つけたなら捧げる。現代はまるで宗教の供物文化みたいだ。

自分が宗主になるか、信者になるか。宗主になったらなったで、宗教同士の交流が始まる。信者のたぐいによって、好き勝手暴れ始め、戦争になる。


そんなことが自分の知らないところで常に起こっている。自分は知らないところで知らない何かが起こっていることに気づかない。
たまにニュースになったり、偶然知ったりする。それでも世の中のほとんどは、自分の世界とほとんど関係ない。
だれもが狭い世界を生きていて、狭い世界中に新しい発見をする。大きな世界、大局的な世界。そうは言っても、だれしもが神にはなれない。

 

最初の1粒のチリ

努力とは、誰かに自分を認めさせる積み重ねの作業のことを指すと、思っていた自分がいる。
常に何かに飢えるように、認められたいと振り回されていた。目の前のことをするために、遠回りをしていた。女の子にモテたいからダンクをできるようになる。なんか中学生っぽくていいよね。
実際に女の子と仲良くなりたいなら、自分の前の席にいる女の子に話しかけるべきなのだ。逃げるとは、自然と生活の一部にある。手段と目的は、簡単に逆転する。

 

今でも、自分の目の前にあることが手段なのか、目的なのかはわからない。自分の一番好きなモノを断言できるような、闊達さは持っていない。灯台下暗しじゃないことを祈る。石橋なんて叩かないほうがいい時代になってしまった。


完璧主義のくせに辛抱強くない精神は、準備だけで疲れてしまう。身の回りのもの目をむけず、遠くにある高い高い釣り竿を用意することに精一杯になってしまう。工夫ができない人間なのか。工夫を知らないのか。


始めることが、難しい自分だ。始めないほうが楽なのだ。でも、何もしないということも同時に苦痛になる。それを重々承知している。これは経験によるものだ。
とんでもなく長い時間何もしない期間を暮らした。やっと気づいて、恐れおののいた。何者にもなろうとしない、なにもしない、それもまた辛いのだ。

 

世の中楽しいことだけが表に出ているわけじゃない。自分の感じない苦痛は、苦痛として認識できないだけだ。朝のニュースに誰かが死んだと報道されても、自分の苦痛ではない。


不思議な世だ。だれもが楽しいことを求める中、苦痛も本来溢れている。でも、他人の楽しいには反応できるのに。他人の苦痛には痒みすら感じない。白状な自分がいる。
どこかの世界はつねに滅んでいて、自分もいつか滅ぶ。気にしないで良いのだ。多分。