砂場でサラサラドロドロ

 

懐かしい公園


父の退院のお迎えに行った。その帰り道、公園に通りかかる。古くからずっとある公園で、小学校の帰り道の脇にあるからよく遊びに行った。
それほど大きい公園ではない。道は高台で、公園は低地にある。一度公園の入口を逃すと、道側からは高さの問題で入れない。


もっとも小学生の頃なら、飛び降りることに恐怖感も感じず、羽ばたくのも遊びの一種だった。今改めて見ると、高い。一戸建ての屋根から飛び降りるくらい。


その公園は道に沿って作られているから、細長くなっている。道は途中から下り坂になっており、やがて公園と道はおなじ高さになる。
公園は細長い部分と、少し広い空間が組み合わさっている。走り回り、逃げ回るには丁度いい。ドロケイが流行っていた。
というかろくな遊具がないから、必然走り回るくらいしか遊びがない。木が乱雑に生えているから、木登りも良くした。


そんな懐かしの公園。滑り台が、撤去されてしまうようだ。ドロケイでのあつい一対一がもう見れなくなってしまうのか。ビニールでがんじがらめ。老朽化のため使用を控えてください。そう札が張ってあった。


通りかかったのは帰り道、3時か4時か。すこし下校時間を過ぎているな。だから、小学生の声が聞こえないのかも。と思ってたら、今日は土曜日だった。
今でも公園で走り回っている子はいるのだろうか。サッカーで全く見知らぬ人のいえにボールがぶっとび、不法侵入する遊びはまだ現役だろうか。

 

砂のお城、落とし穴

 

公園で一番好きな遊びは、走り回ることだった。それに引けを取らないくらい、砂いじりも好きだった。
砂場はこころ踊る。海の砂浜だと、何か違う。違わないかも知れないけど、砂場のために海に行きたくはならない。海だと海が主役で、海で遊ばないとっ!!という強迫観念がある。太陽に温められた砂は好みだけど。
砂場で、砂の壁をいくつも作って、手でぶっこわす。派手に砂が吹き飛ぶ。頭の中ではドラゴンボールの悟空が、だれかにぶん殴られてふっとばされた光景が再生される。
派手に小さな壁を突き破って飛んでいく手がやがて、砂場にクレーターをつくり埋まる。いまでも心踊る。精神年齢がまるで発達していない。

 

砂の山もやはりいい。水を流す瞬間よりも、高い山を作って、水を流すための穴を作るほうが好きだった。砂の質によっては、濡らさないと山にトンネルを作れない。必然泥だらけ。泥団子で雪合戦が始まる。
トンネルと作っていると、反対側から工事している誰かの手とぶつかる。
握って、握られて、引っ張りあって砂の山が崩壊。ケンカ殴り合いのパターン。あるいは協力して、手の合流点から舌に穴を掘り始めたり。我慢できず、トンネルから山の頂上に向かって破壊衝動を解放したり。砂場の遊びはあらゆることが楽しい。


砂場に落とし穴を作って、成功したのは1度だけだった。公園ではなく、学校に作った。砂場の表面の砂は、砂浜のように柔らかくサラサラ。それゆえ、浅い穴だとすぐに回りの砂が入り込み埋まってしまう。掘るなら、粘土質を突き破り、固い岩盤にぶち当たるまで掘る。じゃないと穴の強度を確保できない。

 

最も問題なのは、掘ってからだ。季節によっては、十分な強度かつ大きな葉っぱなどない。小さい落ち葉なんかじゃまるで意味がない。砂の中の落ち葉。細い長いシダ系の葉っぱ、あるいは常夏の扇のような葉。細い長いシダ系を全滅させる勢いで、葉っぱを毟る。それを丁寧に縦横に網目のように並べる。学校の義務教育成功してますね。少しずつ、色の濃い粘土質の土をかぶせ、最後に砂場の砂でカモフラージュさせる。小学生のときの話だったと思う。何人か友人もいた気がする。デブとのっぽ。おれはチビだった。

 

昼休みが終わってもいない俺たちを砂場に見つけた担任の先生。叱りに向かってくる。獲物が落とし穴を通るように、獲物の逆の位置にぼくらはさりげなく動く。ばれないように砂場で山を作るフリをしていた。デブは想像で含み笑いをしていた。落とし穴がばれないかヒヤヒヤしていた。のっぽのすまし顔を見ろ。そろそろ来る。上手くいく?落ちた。できるもんだな、と感慨にふけっていた気がする。膝まで埋まるような深さだから、下手すると幼い子が怪我をしたかも知れない。先生も想像力が乏しい、脳筋野郎に過ぎなかったから助かった。担任は誰かを救ったのだ。


友人は爆笑していたが。先生も恥ずかしさからか、叱ることも忘れ、有耶無耶に怒られなかったのは良いことだ。昼休み全部と授業の時間を使った甲斐があった。

 

 

さよなら砂場。また会う日まで

最近になって、罠猟の本にて、落とし穴は禁止されていると知った。人間が落ちて危険だからだと。


罠のイメージの代名詞なトラバサミも現在は禁止されている。苦痛を与える道具はダメらしい。例え、捕まえて殺すためだとしても、痛みや苦しみを与えるためじゃない。何か感じ入る。生と死はいつだって不思議な感情を残してくれる。

 

砂場の消滅も死だろうか。砂場の砂は維持するために、外部から砂を買ってきてまく。知ったのは、授業中によそ見をしているときだったか。トラックが砂場付近にとまり、袋をやぶって砂をまいていた。学校の砂場は消滅しないだろうが、公園の砂場は最近見かけない。子供も見かけない。もっとも公園で遊んでいる時間じゃないからかもしれないけど。文明の利器が楽しいのは分かる。騒音問題で公園に遊びづらいのも時代の流れか。

 

砂場、あの感触やっぱり好きなんだよな。消えてほしくないね。